大日本地名辞書を編さんした吉田東伍を訪ねて「吉田東伍記念博物館」へ 父東伍と息子千秋の才能に出会う/阿賀野市


2024年07月13日 1307ビュー
辞書を作るドラマにはまり、原作小説を読み始めた小柴ぱせりです。
辞書を作るってすごいなあと思いながら、新潟にも辞書を作った歴史学者がいると知り阿賀野市の「吉田東伍記念博物館」を訪ねました。

「記念館」と名付けたら、館はそこで完成してしまう。今後も吉田東伍の研究を続けて行くために、館の名称は博物館とする。そうお話をしてくださったのは博物館準備室ができる前から東伍の研究をしていた渡辺文男さんです。

博物館ではメイン展示がふたつ「大日本地名辞書」「世阿弥秘伝書の発見」、そこに近年東伍の論文が話題になり追加展示として「貞観地震」が加わりました。
吉田東伍は1864年越後国蒲原郡保田村(現阿賀野市保田)の裕福な山林農家旗野家の三男として生まれ、1884年蒲原郡大鹿新田(現新潟市秋葉区大鹿)吉田家に婿養子に入ります。

学歴は小学校卒業のみ、その後は学校がなくなってしまい卒業の証は得られず、自身は「学歴図書館卒業」と話していたとか。「1日いれば15日分くらいの材料は得られる」と情報は図書館で集めていたようです。かといって自宅は参考書物であふれているかと思えば、東伍の部屋を訪ねた「冨山房」社長がそのなにもない空間に驚き、それに関心して「日韓古史断」の出版が決まり、のちに同社から「大日本地名辞書」を出版することになります。

「大日本地名辞書」とは日本各地の地名を集め、それについての詳細をまとめたもので、初版11冊の正編は1907年に完結、出版社は「冨山房」。総ページ5,180ページ、約41,000項目、文字数約1,200万字余り。これをひとりで調べ、ひとりで編集します。
初版刊行から1世紀経っています。地名には地域の歴史が詰まっているため諸説あります。地名辞書をきっかけに異論を含めて郷土の研究が進んでいくことになりました。

さて東伍は「大日本地名辞書」を刊行した翌年1908年、銀行財閥の安田家の書庫の中から世阿弥の秘伝書を発見します。

世阿弥は室町時代初期の猿楽師で、現代に続く能楽を作った人として知られていますが、日本の芸能は、特に大事なことは口伝で継承されることが多く、口伝なだけに存在起源があやふやで不確かなものが多いのです。「世阿弥」という人物も伝説の存在で、確かにいたことを証明するものはありませんでした。しかし江戸時代に口伝だけでは不安な人が書き記した秘伝書が残っており、それを東伍が活字に書き起こしたのです。

1909年、東伍によって編さん、刊行された「世阿弥十六部集」は能楽界に衝撃を与えました。

東伍の没後、原本は関東大震災で消失してしまいましたが、刊行された「世阿弥十六部集」は能楽関係者の間で「吉田本」として宝典扱いされているそうです。

また2011年3月11日の東日本大震災を契機に、東伍の1906年の論文「貞観十一年陸奥府城の震動洪溢」が見直され、東伍が災害史研究の先駆者であったと注目されました。

東伍の論文によると、百人一首の清原元輔(清少納言父)の歌
 
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

の下の句の「波」とは「津波」であると論じています。

東伍は自分の興味のおもむくままに研究をすすめ、広く情報を得てまとめていました。いまで言うところの「データベース化」をする天性の才能があったようです。

そんな東伍のことを研究し続けているところが、ここ「吉田東伍記念博物館」です!

阿賀野市立 吉田東伍記念博物館

町の中にある博物館には、東伍の生家もあります。駐車場は生家の脇と奥にもありました。
縁側の向かいには庭があり、庭脇の通路を進んでいくと博物館の入口です。
明るいロビーの先に受付窓口と、博物館入口が向かい合います。

あ、安田瓦の鬼像発見!
右手に受付窓口があり、向かい側に展示室の入口があります。
小さな博物館ですが展示内容が濃厚です。ぜひすみからすみまで堪能してください。
東伍の兄の息子が欧米視察に出かけ、乳牛を買ってきた新潟県の酪農の元祖とか、縁者も郷土史を書き地域貢献している多彩な家族です。
東伍の冊子と、論文、それから愛用の犬の文鎮のレプリカ買っちゃった。
 
博物館2階には東伍の息子、吉田千秋の紹介もあります。

琵琶湖周航の歌 作曲者-吉田千秋

吉田千秋が知られるようになったきっかけは1971年の大ヒット曲「琵琶湖周航の歌」でした。
 
吉田千秋が作った「ひつじぐさ」という楽曲があります。楽譜とともに音楽専門家会員雑誌の「音楽界」に1915年に掲載され、それまで日本では数字譜が主流だった時代に、五線譜のドレミの楽譜が掲載されたことで、音楽サークルなどでも広く歌われるようになりました。
 
「ひつじぐさ」は賛美歌風のメロディでしたが、バンカラの学生たちにも受け入れられ、第三高校水上部(のちの京都大学ボート部)が作詞した歌詞が「ひつじぐさ」のメロディに載せて歌われ、時を経た1971年のヒット曲となります。
 
「琵琶湖周航の歌」ヒットのあと、歌のルーツ探しが始まります。
作詞は第三高校関係者から確認できたのですが、作曲はどこの誰だかわからない。そのうち第三高校卒業生の書き写した手書きの譜面から原曲が「ひつじぐさ」であり、作曲が吉田千秋ということが分かります。そして「ひつじぐさ」が音楽界に掲載されていたこと、会員名簿から吉田千秋が東京から新潟に移ったことが分かりました。
(写真は 音楽界表紙と掲載された千秋の楽譜/ひつじぐさ)
しかしそれ以上のことは分かっていなかったことから、1993年「琵琶湖周航の歌75年記念事業」で新潟の新聞に「吉田千秋について情報を求む」という内容の記事が掲載されます。
そして吉田東伍記念博物館で東伍の家系図を調べていた関係者が、24歳で亡くなった次男「吉田千秋」の存在に気づくのです。
当時ご存命だった三男(千秋の弟)の冬蔵さんが、今津の関係者から千秋なる人物の東京の住所を聞くと、それが東伍(父親)の東京の住まいと一致したことから、吉田千秋は吉田東伍の次男「千秋」であることが確認できたのです。
千秋が亡くなったのは冬蔵さんがまだ小学生の頃、70年後の再会でした。
(写真は 千秋が愛用したエジソン蓄音機と手風琴(アコーディオン))
新潟市秋葉区の千秋の生家で遺品を整理したところ数々の資料が発見され、千秋は、音楽だけではなく、植物や園芸、言語、ローマ字、動物学と、幅広い興味を持っていた人物であったことが分かってきました。
 
千秋の遺品の中に植物に関する資料が多数あることが分かり、2003年にも新潟県立植物園園長の倉重さんが調査を行っています。千秋は東京から新潟に移ったあと、チューリップについて関心を持っていたようですよ。
秋葉区は花のまち、千秋とチューリップのお話は、また別の機会に。
 
鉄分多いぱせりとしては、新津駅3番5番ホームに使われているチャイムが「ひつじぐさ」のメロディであるということが新たな発見でした!
阿賀野市立 吉田東伍記念博物館

阿賀野市立 吉田東伍記念博物館

住所 新潟県阿賀野市保田1725-1
駐車場 普通車/有り
営業時間 9時30分~17時(入館は16時30分まで)
定休日 月曜日(祝日の場合は翌日)、
祝日の翌日(土日の場合は開館)、
12月28日~1月4日(祝日の場合は翌日)
料金 一般:300円(250円) 小・中学生:150円(100円)
※カッコ内は団体20名以上の料金
問い合わせ 電話 0250-68-1200/FAX 0250-68-5016

千秋は家族向けの小冊子を多数製作しています。千秋の作品については、「ちあきの会」の新藤幸生さんが寄稿するブログ「アキハレトロ」の記事をぜひご覧ください。

阿賀野市立 吉田東伍記念博物館

この記事を書いた人
小柴ぱせり

72年新潟市生まれ、99年結婚、夫婦二人暮らし。イラスト描きます。 読書、創作、映画、音楽、演劇、着物など、文化系多趣味で、ちょっと?鉄子。企画運営好き。 15年-18年は信州暮らし。
https://314musubiya.9nzai.net/