石油王ゆかりの地・紅葉の金津へ/新潟市


2021年11月10日 6691ビュー

君は石油王・中野貫一を知っているか?

紅葉の季節、新潟県各地の紅葉スポットもだんだん色づき始めてきました。そろそろドライブにでも、と思いつつも最近のガソリン価格の値上がりが気になります。ていうかガソリン、ガソリン……、石油?
そういえば秋葉区の金津には、かつて石油採掘で巨万の富を得た石油王・中野貫一がいたな、ということで行ってまいりました金津。

金津村の庄屋だった貫一は1903(明治36)年に商業油田の採掘に成功。新津油田は当初は手掘りだったものの、ロータリー式掘削などの当時最先端の技術を積極的に投入。さらに日清戦争や日露戦争などの石油特需を追い風に新津油田は産油量日本一になりました。

今回、明治・大正・昭和と繁栄した石油王・中野貫一とその長男、忠太郎の築いた中野家の本館と蔵、それに当時、中野家による近隣住民の仕事確保のために築造された広大な庭園「泉恵園」からなる中野邸記念館を中心に、周辺の石油関係を中心とした観光施設からなる石油の里公園を10月末に訪問。一足早く色づき始めた紅葉と、かつての栄華の面影を楽しんできました。

まずは中野邸記念館。え、魯山人も来てたの?

中野貫一が築いた中野邸ですが、1997(平成9)年に作家の作品を展示する美術館としてオープン、その後、中野家の歴史そのものにクローズアップした記念館として2017年にリニューアルして今日に至ります。
かつては新館を含め建坪650坪もあったというとんでもない大豪邸で、中野家と交流のあった陶芸家で美食家としても知られる北大路魯山人も訪れたそう。
記念館として現存しているのは、総2階建の本館と5つの蔵など建坪約250坪。最も豪壮で、かつては本館にあった新館については、1948(昭和23)年に東京赤坂の魯山人の営む会員制の料亭として移築されたそう。新館の資料写真などを見ると、邸宅というよりはなんていうんだろ? なんか「一大スペクタクル」って感じ? 撮影禁止だったので紹介できないのが残念。
入場すると最初に目につくのは、作品展示室になっている3つの蔵。
企画展示室になっている「一の蔵」、同記念館と親交のある「関西の一流料亭をすべてファインダーに収めた写真家」として知られカエデの研究家でもある矢野正善さんの作品などを常設展示している「二の蔵」、中野家の貴重な所蔵品や資料を展示している「三の蔵」とそれぞれ興味深い展示がずらり。
とくに撮影禁止の「三の蔵」は、本館見学前にチェックして予習しておきたいところ。ていうか、昭和10年の全国所得税納税者番付で前頭筆頭って半端ないっす。三菱とか住友とかの当時の財閥に並ぶ納税額。まさに石油王。
そして、いよいよ本館。
外観は正直、思ったより質素な気がしました。県内各地のいわゆる「豪農の館」と言われる邸宅に比べると建築された時期が違うからでしょうか。随分とモダンで洋風の意匠が多い印象です。
入り口を入ってすぐのところには一般客向けの応接間(写真左)、その先には賓客向けの応接室(写真右)があり、確かに微妙にグレードが違うんですね。
そして主庭に面した縁側。この日も多くの人が見学に訪れ、色づき始めた庭の木々を眺めていました。
中野貫一の肖像画もありました。すごく知的な印象がします。石油王というよりは学者さんのイメージです。あるいはエンジニアとか。
そして2階で目を引くのは賓客の滞在した部屋。和洋の二間続きになっています。きっと海外からの来客もあったんでしょうね。また、ここには魯山人はもちろん阪急電鉄の創業者である小林一三、日本の電力王・松永安左エ門、昭和32年には高松宮殿下も滞在されたそう。
見下ろす中庭の池も風情があります。
再び1階へ。興味深いのは女中部屋。これ宙吊りになっているんですね。夜は梯子を引き上げることで男衆の出入りができないようにしていたとか。
そして最後に当主の部屋。和室の2部屋続きになっています。広いんですが、想像していたより質素な造りで、調度品もそこまで豪勢ではない印象です。展示されている「かいまき布団」がなんだか生活感があります。

広大な泉恵園を歩く

本館の隣にあるのは中野家の広大な庭園「泉恵園」。庭園と言うより、なんというか裏山全部が庭という印象で、これがとんでもなく広い。
日本有数のもみじの本数を誇る紅葉の名所として県内では知られており、この日も多くの見物客が訪れていました。
なお、10月末時点でも結構色付いていました。例年11月後半まで楽しめるそうです。
こちらは庭園の奥にある中野家の旧墓所。どこかのお殿様のお墓のような威厳があります。
紅葉だけでなく、ここには数々の建造物跡地や史跡が点在しており見どころになっていますが、個人的に印象的だったのが2体の洞窟観音です。
観世音(かんぜおん)菩薩(写真左)と千手観音(写真右)があります。いずれも中野親子が建立したものだそう。
貫一は石油採掘に着手しながらもなかなか商業規模の油田を掘り当てることが出来なかったそうです。金津の大地主であったはずの中野家は次第に傾き、一族にも白い目で見られるようになったそう。周りから見たら石油採掘事業は博打のように見えていたんでしょうね。
そんな貫一の枕元に観音様が現れ、そのお告げに従って採掘したところ商業規模の油田を掘り当てたとのこと。
石油王・中野貫一といえば勉学にも明るく、石油採掘にも先進的な欧米の機械を積極的に導入するなど近代的な実業家があると同時に、そうした神仏への信仰というスピリチュアルな面があったことがとても興味深いです。

中野邸記念館/泉恵園

住所:新潟市秋葉区金津598番地
開館期間:毎年9月1日から11月30日まで
開館時間:(9月1日から10月最終火曜まで)午前9時30分から午後4時30分まで
     (10月最終水曜から11月30日まで)午前9時から午後5時まで
     ※入館はそれぞれ閉館30分前まで
     ※泉恵園は30分早く閉園します
休館日:毎週水曜日(ただし祭日の場合は開館。また11月中は全日開館)
入館料1000円(高校生以下無料)
TEL:0250-25―1000

次は「石油の世界館」へ

中野貫一が切り拓き、この地に巨大な石油産業を築くことになった「新津油田」について理解を深めるため、中野邸記念館と泉恵園の間にある新潟市の施設「石油の世界館」にも足を運んでみました。
1988(昭和63)年にオープンしたこの施設では、新津油田のみならず石油採掘の歴史や石油と人類のかかわりを広く紹介する施設となっています。
現在の採掘の方法や石油のとれる地層などをサンプルや模型で紹介。
新津油田の採掘で使われた衣服や器具を見ることもできます。
また、昨年、同館はサウジアラビアの国営石油会社サウジアラムコの日本法人、アラムコ・アジア・ジャパンからの寄付金により映像コンテンツと設備をリニューアル。新津油田に関する最新の映像コンテンツを楽しめるようになりました。
 
こちらはシアターを永遠に楽しむ謎のおじさん像。小さい子どもが見たらきっと驚くだろうなあ。

石油の世界館

住所:新潟市秋葉区金津1172番地1
開館時間:午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
休館日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日。ただし5月と11月は無休)
    12月28日から1月3日まで
入館無料
TEL:0250-22―1400

石油遺構と里山ビジターセンター

この周辺には、新津油田の遺構が数多く残っています。せっかくなのでハイキングがてらいくつか見てみようと思いました。
そして、その拠点となるのがこの里山ビジターセンター。菩提寺山を中心とした里山散策の拠点として整備されている施設で、この日は絶好のハイキング日和ということもありお客さんが大勢訪れていました。
中には里山に関する情報発信のための展示やアトラクションがあります。マップや動植物の情報がいっぱい!
また物販も充実していて、各種土産物が取り揃えてあります。ハイキングにはアイスクリームもありがたい。
ついでに、石油の里公園のランドマーク的な「古代館」の外観も。
こちらは休憩ホールのようです。小学生の遠足などで利用するのでしょうか。
石油遺構については公園内にいくつもあるほか、遊歩道を歩いていると、石油を含む砂「オイルサンド」の含まれる地層や、明治から大正時代に掘られた井戸や櫓を見ることができます。中には、平成まで可動していたものも。
新津油田はこの金津を中心に新津丘陵に広がっていたそうで、新津の市街地にも関連の工場があったほか、河川を使った輸送など産業の裾野が広がっていたのだろうと想像できます。きっと賑やかだったんでしょうね。

里山ビジターセンター

住所:新潟市秋葉区金津1193番地
開館時間:午前9時から午後5時まで。
休館日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日。ただし5月と11月は無休)
    12月28日から1月3日まで
入館無料
TEL:0250-22―6911

今でも地域に愛される「中野さま」

「何事もなしえぬ 老いの身にしあれば あつき恵みに いつぞ報いむ」

これは石油王・中野貫一が最晩年に詠んだ、庭園「泉恵園」の名前の由来にもなった句です。
そして、この句に書いてある通りに、あるいは泉恵園に建立したいくつもの神仏からも窺えるように、自身の事業の成功を神仏の加護と考え、生涯を通じて地域に多額の寄付や経済貢献を行い、この金津地区に発展に尽力しました。財団の設立を通じた地域医療や地元小学校への財政支援のほか、広大な庭園である泉恵園も当時の失業者対策として造ったものでした。あえて近隣住民に仕事を提供するためにこの規模になったのだそうです。
一方、貫一本人の暮らしぶりは中野邸本館の当主の部屋を見れば分かる通り、きらびやかな賓客の間に比べると随分と質素な生活をしていたことが窺えます。
石油産業で成功してからも金津に住み続け地域発展に尽力したのは、あくまで実業家である前に地域の地主としての責務だったのかもしれません。
いえ、富と名誉を約束された大地主の家に生まれながら、石油採掘という大博打に挑んだのも、金津の将来を見据えた上での挑戦だったような気がします。あの頃、新潟港は開港5大港のひとつとして発展し、治水や排水技術の改良により越後平野の米の収量は徐々に増加してきました。地方にも近代化の波が押し寄せてきた時代です。その中で、貫一は金津の地主として地域の近代化を見据え、石油採掘に可能性を見出したように思えてなりません。
新津油田も1996(平成8)年に石油採掘が終わり過去の物となりましたが、今でも地元で「中野様」と愛され畏敬の念を持たれていることからも、彼の地域への思いがうかがえる気がします。
この記事を書いた人
ヤマダ マコト

新潟市秋葉区在住。サラリーマンの傍らkindleストアで電子書籍にて地元・新潟を舞台にしたエンタメ小説を発表。インディーズながら一部で熱烈な人気を集め、どっちが本業か分からなくなりつつある中年男。

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