「国境のトンネル」開通90周年。川端康成の小説『雪国』の舞台を巡る/湯沢町


2021年09月27日 87724ビュー

長いトンネルの先には・・・

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
あまりにも有名な、川端康成の小説『雪国』の冒頭です。
 
1948年(昭和23年)創元社発行の決定版『雪国』のあとがき時点で、川端は「雪国」がどこなのか、明記しませんでした。その4年後、岩波書店発行の文庫のあとがきでは、「雪国の場所は越後の湯沢温泉である」と書いています。
<撮影場所:湯沢高原スキー場、湯沢町の湯沢・神立・土樽エリア方面>

創元社版で、川端は「小説だけを見てほしい」と書きますが、当時から作家本人の意向に反して、世間は詮索したようです。
「雪国が愛読されるにつれて、場所やモデルを見たがる物好きもあり、温泉場の宣伝にまで使われるようになった。」

さて、そんな「物好き」の一人として、『雪国』の世界、現在の湯沢とその歴史を辿ってみましょう。
<撮影場所:雪国の宿 高半>

「国境の長い」清水トンネルと、越えてすぐの土樽駅

川端が初めて湯沢を訪れたのは、1934年(昭和9年)6月13日。群馬県の大室温泉旅館から清水トンネルを越えました。清水トンネルの工事は、1931年(昭和6年)3月に完成しましたが、工事期間は実に9年の長きにわたるものでした。そして、約半年後に上越線が全通します。(※1)
<撮影場所:湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」>

このトンネルの特徴は、線路の勾配を1,000分の20に抑えるため、トンネルの両側に螺旋形に迂回する、いわゆるループ線を造ったことにあります。長さ9,702メートル。当時、全国で第一位、世界でも第九位でした。(※1)
 
湯檜曽駅周辺と越後中里駅手前の松川の2カ所で、線路がクルンとループしてまわっています。このとき、Google mapなら航空写真にしてください。ループはどちらも山中であることが分かります。トンネルの中なので、乗っていても「いまループだ」とは分からないそうです。(方位磁石を持って乗ると面白いとアドバイスあり。)
 
ところで不思議なのが、線路2本のうち、クルンとなっているのは1本だけなんですよね。調べますと、ループ線の方が昭和6年完成、現在は上り線(水上方面)。もう1本は1967年(昭和42年)、全線複線化で出来た線路、現在は下り線(長岡方面)。つまり、現在の私たちは、川端と同じ線路で、トンネルを越えて雪国湯沢へ来ることができません。
<撮影場所:湯沢町土樽(つちたる)>

線路の先(写真の右手方面)にトンネル口があります。写真の手前に写るのが新しい方の線路です。
<前の写真よりトンネル口近くに移動して撮影>

水上行きの電車が通って行きました。「あ、電車」と気付いてからレンズを向けて追ったので、後部が写っています。まもなくトンネルに入る所です。
 
トンネルを出たすぐ近い場所に「殉職碑」が建っています。
<左が殉職碑。右は「慰霊碑」。>

線路に向いています。後ろを通るのは関越自動車道。
 
清水トンネルの工事は難航を極め、坑外の関連工事を含め44人もの犠牲者を出しました。当時、最新鋭の機械が続々と投入されましたが、最後はやはりダイナマイトの爆破作業。土樽口だけでも240トンを使用、南北合わせると500トンにものぼりました。(※2)
 
トンネル口へ向かってみます。
<新清水隧道(しんしみずずいどう)>

長さ13,500メートル。近くへ寄ると、真夏なのにトンネルから冷気が出ていました。「わあ、涼んでいこう」と最初は佇んだものの、すぐに「だめだ、寒い」と撤退するほどでした。何度くらいだったんだろう。温度計を持って行けばよかったです。

トンネル口から少し先(湯沢寄り)に、JR土樽駅があります。
<土樽駅へ向かう道から、駅の方向を撮影>

電車が停まっているのが、下りホームです。『雪国』で、葉子が「駅長さあん、駅長さあん」と汽車の窓から叫んだ信号所がここです。「駅」ではなく、当時は「信号所」でした。
 
土樽信号所は、清水トンネル工事用の軽便鉄道の信号場として1923年(大正12年)12月に誕生しました。連日、膨大な資材と機械類が送り込まれ、働く職員、作業員とその家族のための宿舎、長屋が続々と建てられ、その数が190戸にもなりました。(※2)当時は「鉄道村」と呼ばれたそうです。いまや、その村は跡形もありません。
 
土樽信号所は1941年(昭和16年)、駅に昇格。海抜599メートルにあります(駅構内に表示があります)。
<JR土樽駅>

ここから乗り降りする人は少ないのではと思いますが、登山客の利用がありそうです。

レンガ造りの鉄道陸橋「毛渡沢橋梁」

土樽駅の少し先(湯沢寄り)、毛渡沢(けどさわ)川にかかる橋梁があります。「日本の美しい鉄道陸橋」として、メディアにも取り上げられる毛渡沢橋梁。私が実際に初めて見たのは約5年前でした。今回で2度目です。初めて見たときも感動しましたが、今回は上越線について、いろいろ調べてから言ったので、また別の感動がありました。
<右が昭和6年、左が昭和42年に出来た橋梁>

見上げると、想像以上に高いというか、重いというか、ズシリと感じるような凄さがありました。視覚的に重量感がある。といいましょうか。レンガだからだと思いますが(このレンガは補修されているそう)、これが昭和6年の頃の…!という気分が作用するのかもしれません。
 
「古い建造物などがそのまま残っている」というのは、湯沢にはほとんどないようです。神社、寺院、旅館、民家、それらは多くが建て替えられました。そんな中、古くから残っている建造物のひとつが毛渡沢橋梁なのです。
<湯沢方面を向いて撮影>

柱を数えたら10本ありました。レンガに「45」や「50」と数字が書かれてあったので、おそらく50段くらいなんだと思います。ひとつのレンガが大体30センチとして、15メートルくらいなのかな。電車が通らないか、しばし見上げましたが、やはり時間を合わせないと無理ですね。

さて、土樽エリアから湯元(ゆもと)エリアへ。車で約20分、距離は12キロほど移動します。
 

川端が『雪国』を執筆した宿、高半へ

湯沢町は1955年(昭和30年)、湯沢村、神立(かんだつ)村、土樽村、三俣(みつまた)村、三国村が合併してできました。湯元は、湯沢村の北西の端にありました。
 
川端が初めて湯沢を訪れた1934年(昭和9年)、「当時の湯沢は“戸数四百ばかりの村”で、“湯の宿”は西山の温泉掘削の成功の影響もあって、“十三、四あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びていてよい“所であった。」(※3)
 
川端が泊まったのは湯元の旅館、高半の2階にあった「霞(かすみ)の間」でした。上越線の開通に合わせて、宿主の高橋半左エ門が水上温泉近辺を視察、気に入った建物を建てた大工の棟梁に新館を依頼して完成しました。(※4)高半は1987年(昭和62年)、木造三階建てからホテル形式に改築。これにより、玄関の位置など大きく変わりました。
<1935年頃の高半。写真提供:雪国館>
<現在の高半>
 
「霞の間」は「かすみの間」としてホテル内に保存され、公開されています(見学は宿泊者のみ)。
<ホテル内に保存される「かすみの間」への入口>

川端は、夫人宛ての手紙に、「あけびの新芽のひたしものは、珍らしくうまい。百合根、山の芋、わらび、細い筍、その他山の野菜美味である。はやのフライ。鱒(この川でとれる)山女。岩魚。海の肴も古くない。」と、当時の高半のメニューを書いて送りました。当時の宿賃は「二円五十銭から四円」で、この時は「下等でよしと三円にした」とも。(※4)
 
「あけびの新芽のひたしもの」は、地元で言う「木の芽」で、私も大好物です。ゆがいた後、冷水でさらしてアクを抜き、醤油をかけたり、生卵につけたりして食べます。5月頃の「ごっつぉ(=ごちそう、の方言)」ですね。春は、南魚沼では山菜フルコースの季節。ワラビ、ゴゴミ(コゴメとも言う)、ウド、タケノコ…。ああ、春が待ち遠しいです。
<かすみの間、座敷の出入口から撮影>

川端が湯沢へ来た昭和9年の頃は、現在の女将・はるみさんの祖父・四郎さんが主人の時代でした。四郎さんの長男・正夫さん(明治45年生)は東京大学の文学部学生で、次男・有恒(ありつね)さん(大正6年生)は、旧制新潟高校に入る前、中学5年生でした。その後、正夫さんは、代々襲名する「半左エ門」を継ぎ、有恒さんは医学博士になり、内科医を開業したそうです。(※5)
 
有恒さんは、以下のように書いています。
「その頃の川端先生を、高半旅館では、そんなに尊敬しているわけではなかったし、また新進ではあるが、評価は定まっているわけでないし、ましてや越後の田舎ではなにも知らなかったから、“川端さん”と呼んでいるくらいであった。夜とひるをまちがえている小説書きの<川端さん>がふらふらと廊下を歩いているくらいにしか考えなかった。」(※6)
<かすみの間、窓側から撮影>

川端は生涯に六度、湯沢を訪れたようです。初めて湯沢を訪れたのは6月13日、約一週間滞在。2カ月後の8月に再訪(日にちは不明)、そのとき、「駒子」のモデルとされる芸者「松栄(まつえ)」に初めて会ったとされています。(按摩業を営んでいた星野ミサさんが証言)当時、川端は35才、松栄は19才でした。(※7)
 
約4か月後、12月に三度目の来訪。年明け、「文芸春秋」1月号に『夕景色の鏡』が掲載されます。このとき、冒頭の文章は、あの「国境のトンネルを~」ではなく、「濡れた髪を指で触った。」でした。

そして『白い朝の鏡』、『物語』、『徒労』…と、雑誌に短編として発表されていきました。
 
それら短編の7編をまとめてかなり大幅に手を加え、特に末尾4頁分ほどを書き加えて『雪国』と題し、1937年(昭和12年)、創元社より刊行。1940年(昭和15年)、その後に続く部分を『雪中火事』、翌年に『天の川』として発表したが気に入らず、戦後に書き直して『雪国抄』『続雪国』と続け、ようやく完成しました。

1948年(昭和23年)、決定版『雪国』を創元社より刊行。(※8)
川端は49才になっていました。
 
創元社から出版された『雪国』は、「幸いよく読まれ、文芸懇話会賞を受け、花柳章太郎氏の駒子で新派に上演され、“雪国”は湯沢の宿の宣伝にも使われるようになった。それで私はもう湯沢へ行けなくなった。」(※9)
 
1957年(昭和32年)『雪国』が東宝より映画化。その撮影中での来訪が六度目で、最後の湯沢来訪となりました。
<ホテル内、文学資料室の一角>
 
「かすみの間」に併設された資料室では、川端関連書籍等が展示されています。(見学は宿泊者のみ。)
その他に、小林源太郎の「三国峠権現堂扉」の衝立もあり、沈み彫りという技法を用いた素晴らしい出来栄えの彫刻は必見です。衝立は町指定文化財となっています。ぜひご覧ください。
雪国の宿 高半

雪国の宿 高半

住所:新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢923
電話:025-784-3333(代)

小説にも登場する神社、諏訪社へ

高半から少し下ると、小説に出てくる「神社」、旧湯沢村の村社、諏訪社があります。
 
諏訪社の創立時期は不明ですが、県の神社明細帳によれば「応永9年(1402年)再三建立」とあり、こうした記述や伝承によると、建立から現在まで7~800年は経っていると考えられるそうです。(※7)
<現在の諏訪社、社殿の前の鳥居>
<現在の諏訪社、社殿>
 
『雪国』では、駒子と島村が神社で会う場面があります。
 
「どうなすったの。」
女が杉林の陰に建っていた。(中略)女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。
「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」
<現在の、狛犬の傍の平な岩>
 
今も、この岩はあります。「ここが一等涼しいの」と駒子は言いましたが、そんなに涼しくもなく、「冷たい風」もなく。
 
でも、この駒子の言い回し、妙にかわいいですよね。「一等涼しい」と「真夏でも冷たい風」。「あなたも、ここに座りなさいよ」と言うのではなく、キラキラした目で「ここが一等涼しいの…」と。駒子の活き活きとした声が聞こえてきそうです。
 
平山三男さん(財団法人川端康成記念会評議員)は、「島村が初めて本当に駒子に惹かれていることを意識する神社での印象的な場面」と書いています。(※4)
 
この神社のシーンでは、川端でなければ、このような書き方をしないのでないか、いや、できないのではないかと、ため息が出るような美しさの表現が続きます。少し抜き出すと、「しいんと静けさが鳴る」とか、「石の多い川の音が円い甘さで聞こえてくる」とか、「すっと抜けたように涼しい姿」とか。
 
さて、現在の神社について、今も傍らには確かに狛犬がいましたが、なぜか境内からそっぽを向いています。
<神社境内より撮影。参道は左奥側>
 
狛犬が向く先には柵がしてあり、見下ろすと上越線の線路が通っています。
<柵の先を撮影>

そして、その先にある道らしき先に、鳥居が見えます。
<上の写真を拡大>

境内からは東側を向いて撮っています。
今度は、矢印の場所へ行き、西側(神社方面)を向いて撮ります。
<上の写真の矢印の地点で撮影>

ここは昔、諏訪社の鳥居と参道だったのです。
<撮影年月日不明/写真提供:雪国館>
 
参道の階段を上がると、その先に東を向いた社殿がありました。

いま、社殿は東南を向いています。それは、1973年(昭和48年)、境内地の一部が国鉄新幹線用地にかかり、社殿の移転工事が行われたからなのです。
<1921年の諏訪社、社殿/写真提供:雪国館>
<石垣と階段だけ残っている現在>
 
新幹線が通る前は「鎮守様の森」として暗く鬱蒼(うっそう)としていたそうですが、境内西側の約8千平方メートルが譲渡され、社木の多数が伐採、売却されました。

「駒子の部屋」を展示する雪国館へ

諏訪社の脇を「湯坂(ゆざか)」と呼ばれる脇道が通り、松栄が住んだ置屋の「豊田屋(とよだや)」がありました。(その場所は現在、個人宅ですので、撮影していません。)

豊田屋は二階の部屋を置屋に貸した煙草屋であり駄菓子屋であり、かたわら小百姓でもありました。(※10)その二階部分に松栄が住んでいました。『雪国』では駒子が島村を招き入れた場面があります。
 
「ほっといて頂戴。」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶつかると、そこは駒子の家だった。(中略)
「寄って行って。(中略)今度の私の部屋まだ見ないじゃないの。」(中略)
百姓家らしい古畳の二階は四間で、「私一人だから広いことは広いのよ。」と、駒子は言ったが、襖(ふすま)はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤(すす)けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸(こり)の棲家(すみか)のようであった。
 
豊田屋の2階部分を移築再現した「駒子の部屋」が、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」に展示されています。
<1階フロア、階段近くから撮影>

手前の畳部分に、松栄が仕立てた帯や、芸者時代の写真等が展示されています。
<駒子の部屋、正面から撮影>

奥の部屋には芸者の恰好をしたマネキンがあり、窓には湯元の古写真がライトで照らされています。襖は張り替えられ、畳は新しい物に替えられています。
<豊田屋の間取り/資料提供:雪国館>

移築したのはオレンジ色の部分のみです。
 
湯沢町公民館長などを務めた若井福治さん(大正元年生)が、以下のように書いています。
「高半ホテルの当主半左エ門さんから、思い出話を聞かしてもらったことがある。“川端さんが宿から豊田屋へ通ずる鎮守の森へ下る道、駒子がこっそりと島村をたずねてきた小説に出てくる土手の坂道を下駄履きで降りて行く姿を何度か見たことがあった。その後姿をいまもときどき思い出す…”と。」(※9)
 
松栄は本名、小高(こたか)キクさん(大正4年生)。25才になった1940年(昭和15年)、年季が明けたあと、キクさんは芸者を続けることよりも、故郷へ戻ることを選びました。三条市内の和裁店で働き、その店の職人の小高久雄さんと1942年(昭和17年)に結婚。和裁店の女将として生きました。(※11)
 
雪国館の入口に「駒子像レリーフ」が展示されています。
<レリーフの裏に階段があり、2階が受付>
 
1999年(平成11年)1月31日、キクさんは永眠。
久雄さんの意向を受け、翌年8月、湯沢町が依頼し、六日町(南魚沼市)の彫刻家、野上公平さんが制作しました。
<レリーフ、正面から撮影>
 
若井さんは、以下のようにも書いています。
「その昔松栄の周りにいた湯沢の人たちの話を合わせると、湯沢時代の松栄は、キリッとした美人であり、清潔感あふるる几帳面な性格をもった、本も読み、字も書く、それこそ小説“雪国”が描いている駒子そのものと一致した人であった。」(※10)
 
昭和前期の頃、田舎に暮らしながらも本が読めて字が書ける女性は少なかったのではないでしょうか。

小説で、雑記帳を書いていると話す駒子に、島村が「徒労だね」と言う場面があります。
 
日記の話よりも尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。(中略)
「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか。」
「しょうがありませんわ。」
「徒労だね。」
「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。
 
松栄も日記や雑記帳をつけていたのでないか…。几帳面な性格から、そのように想像します。もし残っていたら、貴重な資料だったことでしょう。
 
年季が明けて故郷へ帰る際、キクさんは、芸者時代に客(川端を含む)からもらった手紙や、川端からもらった生原稿を、諏訪社の境内で焼き捨てたそうです。(※11)その中には昭和9年の頃の日記もあったんじゃないかなあ。叶わぬ願いですが、読んでみたいものです。
湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

【大規模改修工事の後、令和6年1月27日にリニューアルオープン】

住所:新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢354-1
電話:025-784-3965
開館時間:午前9時~午後5時
休館日:水曜
入館料:大人500円/小中学生250円

参照文献
※1)『上越線の80年』1997年・郷土出版社発行
※2)朝日新聞1981年3月25日~26日号「しゅっぽっぽ物語 越後の停車場」記者:白川止一
※3)『湯沢町史 通史 下巻』2005年・湯沢町教育委員会発行
※4)「国文学解釈と鑑賞」別冊『川端康成 雪国 60周年』1998年・至文堂発行(越後湯沢と『雪国』/平山三男)
※5)『湯と雪の宿』著者:高橋有恒/1985年・恒文社発行
※6)『“雪国”のモデル考‐越後湯沢における川端康成-』著者:高橋有恒/高半で販売の冊子
※7)『川端康成“雪国”湯沢事典』1997年・湯沢町教育委員会発行
※8)『作家川端の展開』著者:羽鳥徹哉/1993年・教育出版センター発行
※9)『川端康成全集』「雪国の旅」(1959年)
※10)『越後湯沢温泉旅情 駒子と湯の里』著者:若井福治/1984年政ヱ門出版
※11)毎日新聞1999年2月21日号 「追跡社会」記者:平元英治
この記事を書いた人
シバゴー

南魚沼市在住。趣味は写真撮影と読書で、本で調べた所へ行って写真を撮ることをライフワークとしています。神社彫刻が好きで、幕末の彫刻家・石川雲蝶と小林源太郎、「雲蝶のストーカー」を公言する中島すい子さんのファン。地域の郷土史研究家・細矢菊治さんや、地元を撮影した写真家・中俣正義さん、高橋藤雄さんのファンでもあります。