目黒邸と旧佐藤家住宅で、今では信じられないような昔の暮らしを聞いてみる/魚沼市


2023年07月03日 6008ビュー
春になって雪囲いが外され、家の中が明るくなりました。今年の冬、南魚沼は積雪が少なく、3月は雪よりも雨が多く降り、いつもより短い冬というかんじがしました。それでも、春の待ち遠しさには変わりがありません。5月中旬、ようやく冬季休館が終わった佐藤家と目黒邸資料館、目黒邸(目黒邸は通年開館)を訪れました。

私は民俗学に興味があり、特に自分が生まれ育った南魚沼地帯について調べています。南魚沼市には「茅葺屋根の古民家で、自由に見学ができて、当時の暮らしぶりが分かる」、そのような施設がありません。

南魚沼市と魚沼市、「南」があるか、ないか、という違いがあります。ところで、「北魚沼市」ではないんですよね。「北」が無い「魚沼市」となったのは、2004年(平成16年)に、北魚沼郡に属した堀之内町、小出町、湯之谷村、広神村、守門村、入広瀬村の6つの自治体が合併してからです。

さて、南魚沼市と魚沼市。三国街道でつながっており、魚野川に沿って隣り合っている地形からか、私自身の感覚としては、とても似ている気がします。文化的には「ほとんど一緒」と言ってもいいのではないでしょうか。

信じられないような、昔の暮らしについて聞いてみます。

昔のことで分からないことがあると、小林 守雄(もりお)さんから教えてもらっています。御年、92才。昭和6年(1931年)、旧北魚沼郡堀之内町小芋川地区に生まれ、50才の頃に地区全戸が集団移転となったため、湯沢町へ移住。「今でも、故郷へ帰るだけで寿命が延びるような気持ちになる」と話します。この村での暮らしについて、守雄さんは大変よく覚えているのです。

たとえば、先日に聞いたこと。
シバゴー「昔は着物って、一人何着くらい持っていたんですか?」
守雄さん「山着物(ヤマギモン。作業着のこと)なら三着くらいかな。下は股引(モモヒキ)。女ショ(「女の人たち」の方言)はサンパク。」
シバゴー「どのくらい古くなったら処分したんですか?」
守雄さん「ツギハギツギハギで、いいかげん、これ以上はボロッキレってとこまで着たよ。」
シバゴー「三着じゃ足りなくないですか?洗濯は、どうしていたんですか?」
守雄さん「畑仕事で昼メシに帰るとき川で洗って、川原に干して、午後の仕事で着た。」
シバゴー「干してる間って、裸じゃないですか?フンドシ一丁?」
守雄さん「昔は裸で歩いていたって、誰もなんとも思わなかったよ。俺の親の時代なんて、女も裸で歩いてたよ。」
シバゴー「えっ、ホントですか。信じられない。」

守雄さんの口癖が「今の人には信じられないと思うよ」なのですが、本当に、信じられないような話をたくさん教えてくれます。今回は、そんな守雄さんと一緒に、目黒邸と佐藤家を見学し、昔の話を聞いてみようと思いました。

豪農住宅の目黒邸

目黒邸は寛永9年(1797年)に十一代五郎助が建てた割元庄屋(大庄屋職)の役宅を兼ねた豪農住宅です。重要文化財(国)の指定を受けています。(パンフレットより)

目黒家は会津武士の流れをくむ豪農で、江戸時代初期から近郷の村々を束ねる総代庄屋を、江戸時代後半からは糸魚川藩魚沼領の大庄屋職である割元庄屋を代々務め、明治維新に至っています。(敷地内の看板より)
守雄さん「コンゲン(=このような)でっかい石があるガダスケ(=のだから)、ものすごい財力ダコテ(=財力なわけだ)。新潟県で一番早く車を買ったガが、ここだろう?」
どういうことかしらと思ったのですが、看板に書いてありました。「大正7年(1918年)には自家用車を購入し、県庁が”新1号”で、次”新2号”は目黒家の番号であったという。」

『図説 十日町小千谷魚沼の歴史』(松本:郷土出版社、1998年)によると、「県庁より先に乗用車を購入したが、県庁に敬意を表して”新2号”の番号にしたという。」とありました。

ものすごい財力があった、目黒邸の主屋(ホンヤ)へ向かいます

シバゴー「守雄さんの家も、茅葺屋根だったんですか?」
守雄さん「おら家は昭和に入って作った家だったから石置き屋根。杉の皮の木羽(こば)を敷いてね。本家は茅葺だった。」
シバゴー「守雄さんの村の、一番古い家も、こんなかんじでしたか。」
守雄さん「ここの方がかなり大きいけど、作りとしては似ていた。」
シバゴー「千鳥破風(ちどりはふ)はついていなかったですよね?」
守雄さん「こんなすごいのは、滅多な家ではついていないよ。」

目黒家は明治34年(1901年)所有農地147町歩になり、大正9年(1920年)には二郡一町六村に及び、165町歩に達しました。小作人は325人でした。(※『図説 十日町小千谷魚沼の歴史』より)
主屋の表中門の玄関から中へ入ります。

守雄さん「昔の住宅には大体、潜り戸(くぐりど)があったね。ただ、普通の家のはもっと小さい。潜り戸からは、人間が米を背負って簡単に出入りできないようになっている。土間を抜けて奥には蔵があるスケ、米を運び込むときには戸を全部開けて、普段は閉めとくガダ。」
入口から入ると左手には土間があり、右手は少し高くなっている座敷(茶の間、広間など10以上の部屋)があります。土間の奥は、イロリがある炉地で板の間になっています。以前に来たときには、イロリの周りにムシロが4枚、敷いてありました。今回は無かったので、管理の方に聞くと、寒い時期以外はしまっているとのことでした。以前に座ったときの、ザラザラ、ゴツゴツした感触を思い出しました。

シバゴー「守雄さんはムシロを作らないんですか?」
守雄さん「無理だなあ。ムシロ編み機はボッコして(=壊して)捨ててきちまったから。」
シバゴー「今、わざわざ、ワラのムシロを使わなくてもいいですもんね。」
守雄さん「今様の家になんて、敷く場所がないよ。必要なくなった。」
シバゴー「そうそう、イロリの周りに敷くからいいんですよね…。」

土間と炉地は、使用人が飯を作ったり作業したりした場所で、土間側には「下男部屋(カチヤ)」と「女中部屋(アンドン)」がありました。

シバゴー「守雄さんの村でも、使用人がいた家がありましたか?」
守雄さん「おら家はいなかったけど、本家にはいた。百姓奉公人といって、男をワカイショ、女をオンナゴと呼んだ。」
シバゴー「買われてくるんですか?」
守雄さん「そういう話は聞いたことがない。大体、親戚の子供。貧乏で食わんなくなると、1年いくらで雇われる。」
シバゴー「何才くらいでしたか?」
守雄さん「結婚するまでの、大体14~15才から20代半ばくらいかな。」
守雄さん「普通の家のカマドはひとつだね。ここの家は旦那様だから、大所帯だったんだろう。」
シバゴー「昔は、いつごはんを炊いたんですか?」
守雄さん「おら家の場合、朝に一回。飯を作るガはカッカ(お母さん)の仕事。今の季節なら、明るくなる前、4時頃には起きて、すぐにカマドで飯を炊く。イロリにも火をつけて鍋をかけて、汁を作る。ツァー(お父さん)は、家の周りの仕事をする。朝飯の時間は、7時くらいかな。一人3合は食う。」
シバゴー「えっ、3合?一人が一食で?」
守雄さん「昔はとにかく米を食ったんだよ。米で腹をいっぱいにした。栄養がどうなんて考えない。朝に、まとめて炊いておひつに入れて、昼と夜に食う。白米だけだと量を食ってもったいないから、雑炊か湯漬けにする。カテ飯にもする。」
シバゴー「カテ飯には何を入れたんですか。」
守雄さん「大根菜とか、菜っ葉類だな。」
シバゴー「美味しそうですけど。」
守雄さん「今のような旨いもんじゃない。そりゃあ白米がいいよ。」
シバゴー「昔のご馳走って、何ですか?」
即答です。「餅」。いかに量を増やして食べるか苦心する日常で、ハレの日には、ギュッと米を小さくまとめた物を食べるんですもんね。贅沢品なわけです。

イロリからは煙が上がり、バチバチと音をたて火の粉が舞い、煙の匂いがする

イロリには薪がくべられていました。前に来たときには、火の粉が舞い上がり、バチバチと音をたてていたのですが、この日は静か。こんなものなのかな?と思っていたら、管理の方が、新しい薪をくべました。
新しい薪は、火がついたばかりだと白い煙が、もうもうと出ました。

守雄さん「この匂い、なつかしいなあ。この煙で燻されて、自在鉤や火棚を吊るす縄が丈夫になるし、茅葺屋根まで上がると防虫になる。」
シバゴー「昔は火を点けるのって、どうやっていたんですかね。」
守雄さん「俺の時代にはマッチを使っていた。親の時代には、つけ木(この後、守門民俗文化財館で見てきました。)を使っていた。火を起こすのは、火打石。炊きつけは、スギッパ(杉の葉)を使った。スギッパ拾いは子供の仕事だった。」
シバゴー「薪は、何の木を使ったんですか?」
守雄さん「今、このイロリにくべてる木は分からんけど、シバッキを使った。おら方では”ボイ”と言った。」
シバゴー「シバッキとは、どういう木ですか?」
守雄さん「雑木(ザツボク)のことで、なんでもだよ。山にある、あらゆる木。ハルッキヤマ(「春木山」という三月の山仕事)でまとめて切って、山に積んでおいて来て、おら村の場合は、秋に山から背負って下してきた。ニオ(家の外で積んでおく保存法のこと)に置いて、イロリとかカマドで火を起こすときに使った。」
このくらい火が出ると、バチバチと音がして火の粉が上がります。上に吊るしてある火棚は、ここの場合「大火棚」。通常よりだいぶ大きな物です。火の粉が上がって茅葺屋根が焼けないようにするためでした。昔は、火災の危険があるときには火棚を吊るす縄を切って、ボンッとイロリの上に落として消火できるようにしたそうです。

守雄さん「昔は冬、暖をとるのはイロリか火鉢。あとはアンカしかなかったからね。ワラグツが濡れたときなんかは、火棚の上に置いて乾かしたりしたけど、なかなか乾かなかった。」
シバゴー「乾かないと困りますよね。ワラグツは濡れたのを仕方なく履くとしても、赤ちゃんのオシメとか、どうしたんですか。」
守雄さん「それは、しめし籠ってガを使ったガダ(=しめし籠という物を使ったんだよ)。」
シバゴー「オシメは洗わないわけにいかないですもんね。」

目黒家が生活した、座敷の方を見学してきます

座敷の方は土間より1メートルほど敷居が高くなっており、守雄さんには炉地で待ってもらいました。
座敷の方は目黒家の家族が生活したところで、畳敷きの茶の間にもイロリがあります。炉地のイロリより小さく、火の粉が出ては畳が焼けてしまうので、炭を置いたんですかね。旦那様やお客様が暖をとった場所でしょうか。

神棚が3つと仏間がありました

立派な神棚…。そういえば、玄関にも、しめ縄が飾られていました。守雄さんに「昔は年末年始じゃなくても、しめ縄を飾ったんですか?」と聞いたら、「うちは、年末年始だけだったなあ。これほどの旦那様の家だと飾ったのかな、分からんなあ。」と話していました。
茶の間には4畳の仏間もあるのです。仏間の戸は茶の間側が、真ん中だけ障子になっている板なのですが、縁側の明るい方は、上部4分の3くらい障子になっていて、別々の建具なのが面白いなあと思いました。仏間の中には入れませんでしたが、中を見ると仏壇の扉が開いていました。私は「おお…」と思って、手を合わせました。

茶の間につながった広間側にも神棚がふたつありました。目黒邸の敷地内には、稲荷社と石動社もあります。昔の人にとって、神仏は、今の人が思う以上に大切で重要だったのではないでしょうか。昔の人の「祈りの念」のようなものが、かすかに残っているような気がしました。
縁側に出てみると、家の周りに水の流れがありました。融雪のためなんでしょうか。
奥の座敷。藩の重役等、有位の客が宿泊した部屋です。
中の間と小座敷の間にはめられていた欄間。障子になっているから、襖があっても明るいんでしょうね。ただの格子ではないデザインが、なんだかモダンに見えます。
小座敷から庭が見えるので、縁側に出てみます。

屋敷神のお稲荷様。赤い鳥居が見えます。

池の奥に見える、赤い鳥居が稲荷社です。

ここから近い(約20キロ)山古志の村史には、このように書かれています。
屋敷内に、それぞれの家で個人的に祭祀している「屋敷神」。山古志では稲荷、次いで十二神を祀っている家が多い。屋敷内で祀る神仏を総称して「内鎮守(ないちんじゅ)」と呼ぶ。作神として信仰する所が多く、特に稲荷と十二神を祀る家では、その傾向が強い。
池を眺めながら縁側を歩いて行くと「奥の寝間」があります。
「奥の寝間」の横は「新寝間」です。

お風呂って毎日、入っていたんでしょうか

奥の寝間の近くには、風呂場がありました。やっぱり立派な造りですね。

守雄さんに「昔は、たまにしかお風呂に入らなかったんですよね?」と聞きました。そうであろうと思ったのですが、意外にも答えは「いや、ほとんど毎日、入ったよ」。経済的なところと手間の問題で、家の風呂をたてる(「沸かす」の方言)のは毎日ではなかったのですが、昔は「もらい湯」という習慣がありました。近所でたてた家に「ぼちゃ(「風呂」の方言)、入りに来たぜ」と声をかけると、そこの家のショ(「人」の方言)が「しずかに入らっしゃい」と受け入れたそうです。「しずか」というのは「大人しく、静かに」ではなく、「ゆっくり」というような意味。

まあ、目黒邸ともなれば、もらい湯なんて恐れ多くて、近所の人なんて来なかったでしょうけども。

まだ奥に部屋があります。離れ座敷の「橡亭」(ちょてい)。

床の間には一枚板で、栃(橡)の木を使っていることから「橡亭」という名になっているそうです。つながって4畳半の茶室があります。さすが豪農…とため息が出ます。

贅沢な造りではあるものの、贅を尽くしたという印象はありません。目黒家は、産業や教育、文化の振興、道路の整備、鉄道の敷設、水力発電所の建設に尽力するなど、多くの功績を残しています。(その歴史は「目黒邸資料館」で詳しく見られます。今回の取材では行っていませんが、おすすめです。ぜひご覧ください。)経済をまわすというのは、誰でもできるわけではありません。目黒家ならではの力があったからこそ、この地で生きた人々の生活も改善されたことでしょう。

お稲荷様と石動社へお参りに行ってみます。

主屋から外に出て、橡亭の裏を通り、池の周りを歩きます。お稲荷様、いました。たまにしか来ませんが、また来ます…と手を合わせました。石動社は坂を登った高い場所にありました。
池の中に渡してある飛び石を渡り、小座敷を外側から眺めて玄関へ戻りました。

守門民俗文化財館を見学します。

目黒邸は門の左手に「文化財館」があり、1階受付で入場料を支払います。その2階に民具等が展示されていて見学ができます。階段を上がると、民具や農具などがたくさん並んでありました。
これが一般的なイロリ。目黒邸の炉地のイロリは特別に大きくて立派なんですね。ムシロが敷いてあります。
イロリの真上の天井の梁から自在鉤を吊るし、煮炊きの際には鍋や鉄瓶を下げました。さらに、中段には火棚という格子状の木枠が吊るされました。目黒邸の大火棚は格子状でなく、板が嵌められており、管理の方に理由を聞くと「火の粉除けの用途」とのことでした。
しめし籠。中に火鉢を入れ、オシメを掛けて乾かす。竹製。(館内説明文より)
写真の左側にある薄い木が「つけ木」。「ホウの木、ヒノキ、杉などの薄片の先端に硫黄を塗った物。発火で得た火種やイロリなどから薪などへ火を移すために使用。その後、マッチが登場した。年始の手持ちや、何かもらったときのお返しとして使用した。(館内説明文より)」

黒っぽい物が「つけ木つけ」。「昭和20年頃まで使われた、つけ木を作る時の道具。この台の上に材料の木をのせ、手前に引くと木が薄く削れる。(館内説明文より)」
「木じり」という薪置き場に、シバッキが置かれていました。何の木でも、燃やせれば何でも使ったんですね。守雄さんが言うには「何でもいいからといって、山のどこでも採っていいわけじゃない。”山分け”といって、村ンショ(=村人)で話し合って、今年のオラ家はコッカラここまで、という風に決めて採る」。春木山は重労働なわけですが、女性もしたんですかと聞くと「男の仕事ではあったけど、女が全くしなかったわけでもない。俺もカッカ(=妻)を連れてやったことがあった。男手で間に合う時は、連れて行かんかった。」とのことでした。「男手がある」ということは、ジサ(=お爺さん)がまだ働けるか、アニ(=息子)がもう働けるか、なんでしょうね。
春木山でのランチの思い出を、守雄さんは楽しそうに話します。

「ヒルッタス(ワラ製の背負うカゴ)の中に、メンパ(円形の弁当箱)に白米3合をパンパンに詰めて、山に持って行くガダ。熱いマンマ(「ご飯」の方言)の中に塩マスを一切入れると、その塩分がマンマに染みて、うんめえガドウ。まだ雪の上での仕事ダスケ、川の水は飲まんねえ。ダスケ、木の枝を三又に組んで、その上に雪の塊を置いて陽の熱で融かしてソ、雫で垂れるガをメンパのフタにためて飲んだガダ。うんまかったなあ。」

山の中で生きる力強さを感じて、聞いていると気分が良くなる思い出話です。
目黒邸

目黒邸

所在地:新潟県魚沼市須原890番地
Tel・Fax:025-797-3220(目黒邸管理事務所)
駐車場あり(大型バス駐車可能)
開館時間:午前9時~午後4時
休館日:年末年始(目黒邸資料館のみ冬期間)
入館料:目黒邸・民俗文化財館・目黒邸資料館=大人500円/小人100円
    目黒邸・民俗文化財館=大人300円/小人100円
    目黒邸資料館=大人200円/小人100円
     ※大人:高校生以上、小人:小・中学生、未就学:無料
     ※団体料金あり。20名以上

次は旧佐藤家住宅へ。

目黒邸より約2キロ、車で約3分、山の方へ上がると旧佐藤家住宅があります。国指定重要文化財の指定を受けています。
元文3年(1738年)建築とのことです。300年近くの歴史があるんですね…!

シバゴー「一般的な農家の造りなんですかね。」
守雄さん「いや、普通よりだいぶ良い家だよ。」
守雄さん「この石もデッコくて立派だなあ。」
シバゴー「入ってすぐの、この空間は余裕がありますが、何を置いたんですかね?ワラとかシバッキとか?」
守雄さん「ワラは屋根裏、シバッキはニオだったから、ここには置かなかった。今、ここには無いけど、小便所が埋め込んでがあったんじゃないかな?おら家の場合は、あった。」
シバゴー「すぐ隣りに、個室が和式便所がありますけども。」
守雄さん「便所に小便がいっぱいたまると、はね返りが困るんだて。ダスケ、小便の量をなるべく減らすために分けたガダ。」
シバゴー「小便所は男性用?」
守雄さん「いや、女ショも使った。」
シバゴー「えっ、目隠しがあったんですか?」
守雄さん「家は無かったなあ。便所だって戸じゃなくて、コモを下げただけだったし。」
シバゴー「えっ、信じられない。」
守雄さん「昔は気にしなかったよ。外仕事の時でも、わざわざ家に帰らんで、その辺で、した。女ショのサンパクは、前の紐をとけば、尻の側だけめくられて、全部、脱がなくても用が足せた。」
シバゴー「匂いとかはどうでしたか、臭くありませんでしたか。」
守雄さん「慣れっこだから、そんなに臭いとは思わなかった。でも、肥を撒くときは汲み取るわけだけど、かき混ぜると臭かったね。」
シバゴー「人間の糞尿も堆肥にしたんですかあ…。」
守雄さん「ここは馬屋だね。家は牛だった。大体の家は、馬じゃなくて牛だった。」
シバゴー「牛と馬、どちらを飼うかは、どうやって決めるんですか。」
守雄さん「家は親父が馬喰(バクロ)をしていた。馬喰といっても、つまりは家畜商。牛の売買をしていた。牛の方が、歩きは遅いけど力がある。タッポ(「田んぼ」の方言)の代かき(土を掻き均す作業)は力が要るスケ、牛に馬鍬(まぐわ。「まんが」と発音)をひかせた。牛の鼻先に縄を通して誘導する仕事を「ハナットリ」といって、大体が子供にやらせた。うまいことできないと、牛じゃなくて子供が叩かれる。」

茶の間にはイロリがありました。

イロリの火はついていませんでした。留守宅という雰囲気です。ムシロの上にゴザが敷いてありました。
灰の上には、「わたし」という鉄製の、餅や握り飯を置いて焼く道具が置いてありました。

守雄さん「餅や握り飯は、わたしにのせて焼いたけど、アンボ(米粉で作ったダンゴ。餡は菜っ葉を炒めて味噌で味付けしたもの。昔は、イリゴ粉というクズ米を使った)は灰の中に入れて焼いた。その方が旨い。」
シバゴー「アンボが灰まみれになりませんか?」
守雄さん「叩けば灰なんて落ちるよ。そんなの全く気にならない。」
茅葺屋根の中側が見られます。イロリの煙で燻されて、木は真っ黒。

二階があります。階段を上がると…

二階までの階段が上がれました。下から見上げるだけでも、ワラが積まれているのが分かります。
守雄さん「中門造りの二階で、仲間が集まってワラ細工作りをした。」
シバゴー「小さい窓しかなくて、だいぶ暗いですけど、茶の間とか明るい所ではしなかったんですか?」
守雄さん「茶の間だとワラが散らかる。二階ならワラ置き場だし、作業場として物を置いといても邪魔にならないから。」
シバゴー「ワラ細工というのは、どういう物を作ったんですか?」
守雄さん「ミノとか、せなこうじ(荷物を背負う為に背中を保護する物)とか、時間がかかる物を、仲間としゃべりながら作った。昔は娯楽が無かったから、それが楽しみだった。」
二階からまた階段を上がると、屋根裏に上がれました。物置き場になっていて、田植え枠等、大きい物が置いてありました。
シバゴー「茅の葺き替えって、どうやってやったんですか?守雄さんもやったんですか?」
守雄さん「家は茅葺じゃなかったから、本家のオテンマ(お手伝いのこと)には行った。作業は職人の所へ茅を運ぶ程度。」
シバゴー「何日間くらいかかったんですか?」
守雄さん「一度に全部の葺き替えはやらない。傷んだ所だけ、今年は一部分と決めてやる。」
シバゴー「茅はどうやって調達したんですか?」
守雄さん「個々人で茅場を持っていた。昔は茅が必要だったから、大事にしていた。」

なが~い梯子がありました。

シバゴー「長い梯子がありますね…。二階を通り抜けていますが。」
守雄さん「三間(さんげん)梯子、二間半(にけんはん)梯子、九尺(きゅうしゃく)梯子の三本は、大体の家にあった。」
シバゴー「何のために、これほど長いのが必要だったんですか?」
守雄さん「はざかけ(刈った稲を干す仕事)、杉の木の枝おろし、屋根の修理なんかだね。」
シバゴー「そういえば、お風呂がありませんけど…。」
守雄さん「おら家の場合、ニワに風呂桶を置いてたね。」
シバゴー「ニワっていうのは、土間のことですよね。台所仕事をする場所ということですか?風呂桶を置いた他は、ここは何に使ったんですか?」
守雄さん「唐箕とかを置いて、米ごしゃい(脱穀作業)で使った。」
シバゴー「お風呂の水は、どうやって引いたんですか?」
守雄さん「水道が無い時代には、ミズフネを使った。」

これがミズフネ。川の水が家の中まで入ってきます。

ミズフネから桶で水を汲んで風呂桶に入れ、水をためてから、桶の下で火を焚いて湯を沸かしたとのことでした。

台所仕事にもミズフネを使い、横にあるスイバンで台所仕事をしました。ミズフネの水は、飲み水にしたり、料理や風呂の水に使ったり、茶碗を洗ったりしたわけです。
シバゴー「湧き水とかじゃなくて、川の水ですよね?衛生上、大丈夫なんですかね?」
守雄さん「昔は、三寸流れれば元の水、といって、気にしてなかったよ。」
ミズフネの外はどうなっているのかな?と、ニワから外へ出てみました。
家の脇に池があり、そこに排水されていました。生活用水が、村を流れる川の水だったなんて、今では考えられないですね。
家の外へ出たので、周辺を見てみました。

シバゴー「やっぱり畑は家の近くなんですかね。」
守雄さん「そうとも限らない。この村は、山の上にしては平地が多いから、農作業するには良かったろう。俺の村は、本当に山の中で平地が少なかった。」
シバゴー「畑では、どんな野菜を作ったんですかね。」
守雄さん「今と、そんなに変わらないよ。里芋とかゴボウとかの根菜類、白菜とか野沢菜とかの菜っ葉類、ナス、キュウリ、スイカなんかも作った。」
シバゴー「堆肥は人間の糞尿なんですよね。抵抗あるなあ…。」
守雄さん「まあ、今の人に、昔の生活をしろと言っても無理だと思うよ。」
旧佐藤家住宅

旧佐藤家住宅

所在地:新潟県魚沼市大倉1273番地1
※駐車場は完備されておらず、大型バスは手前の道路の駐車になります。近隣へのご配慮をお願いします。
※トイレ・自動販売機・休憩所等はありません。目黒邸脇駐車場のトイレをご使用ください。
開館時間:午前9時~午後4時(公開期日:4月末頃~11月末頃)
休館日:4月~11月は無休 ※冬期間(12月~4月)は閉館
入館料:資料代として一人につき100円(大人・小人一律)

昔の暮らしについて聞いてみて…

私が昔のことを聞くと信じられないと思うように、昔の人からしても、現代の暮らしというのは、とても想像できないのでしょうね。守雄さんは、「俺の親の時代の生活、今から百年くらい前が、本当に様変わりしたんじゃないかな」と話します。

守雄さんの話を聞くと、昔はとにかくずっと働いていたんだなあと思います。それこそ明るくなる前に起きて、夜なべ仕事もして。今と違って、食べ物はもちろん、あらゆる物が、無いわけではないけど、手に入れるにはとても大変で、つましく生活していたんだなあと思います。

シバゴー「昔の生活は、つらかったですか?」
守雄さん「みんながそうだから当たり前だと思って、別につらいなんて思った記憶はないなあ。」
シバゴー「でも、おなかいっぱい食べられない時代は、つらかったんじゃないですか?」
守雄さん「そうだなあ。戦争の影響もあって、食料不足の時代は特に、食べるために生きていたかんじだなあ。木の根っこ以外は、なんでも食べた。でも、おら村は、そんげに食べる物が無かったわけじゃないと思う。」

私は、守雄さんと同じ年齢で、三国街道の宿場町に住む正夫さんと話したことを思い出しました。
シバゴー「昔のことで、一番つらかったことって何ですか?」
正夫さん「本当に食べる物がなくて、腹が減って腹が減って、しょうがなかったことだなあ。」
シバゴー「正夫さんの家は、大きな農家だったので裕福なのでは…。」
正夫さん「農地解放で土地が無くなって、状況が一変した。食わんなくなって、家を出て、遠くの町で働いた。」
シバゴー「腹が減って腹が減って、という度合は、どの程度ですか?私は、それほど、ひもじいという思いをしたことがなくて…。」
正夫さん「そうか、分からんか。そうかあ。」
そう笑って、正夫さんは黙ってしまいました。
<守雄さん、30才くらいの頃>

生きるために、懸命に働いて、食べて生命をつないできた、昔の人たち。私は、単純に昔の方が今より良かったとは思いません。でも、今の生活が正しいのか…、幸せなんだろうか…、本当に生きているという実感があるのだろうかというと、どうかなと思います。でも、やっぱり今の生活は、昔の人たちにとっての憧れなんでしょうね。

昔の暮らしを知ることは、私たちに、生きることについて考えるきっかけになるのでないかと、私は思います。そして、つましくも健気に生きた、私たちの祖先のことを誇りに思います。

目黒邸と佐藤家

この記事を書いた人
シバゴー

南魚沼市在住。趣味は写真撮影と読書で、本で調べた所へ行って写真を撮ることをライフワークとしています。神社彫刻が好きで、幕末の彫刻家・石川雲蝶と小林源太郎、「雲蝶のストーカー」を公言する中島すい子さんのファン。地域の郷土史研究家・細矢菊治さんや、地元を撮影した写真家・中俣正義さん、高橋藤雄さんのファンでもあります。