映画『峠 最後のサムライ』のロケ地をめぐってサムライ気分を満喫No.1 雲洞庵/南魚沼市


2021年07月03日 16550ビュー
越後長岡藩家老・河井継之助を描いた司馬遼太郎さん原作の小説「峠」「峠 最後のサムライ」として映画化されました。主人公の継之助を演じるのは役所広司さんです。公開は残念ながら2022年に延期となってしまいましたが、上映を楽しみにロケ地巡りをしてみました。今回尋ねたのは曹洞宗のお寺「雲洞庵」です。

奈良時代からの古刹(こさつ)

雲洞庵の起源はなんと今から1300年前の奈良時代!公卿(朝廷につかえる高官)だった藤原不比等の妻が出家して、先妣尼(せんぴに)公という尼となり、この地に庵を構えたことに端を発しています。当時、流行病で多くの住人が苦しめられており、先妣尼公はこの雲洞庵の背後にそびえる金城山から流れ出る冷泉で病人を救ったと伝わっています。先妣尼公亡き後に、息子の房前(ふささき)公が菩提を弔うために尼寺を建立したのが雲洞庵の始まりです。
その後、時は流れ室町時代となり、藤原家末裔の関東管領・上杉憲実(のりざね)公が残された庵を任されることになったのです。憲実公は尼寺ではなく、曹洞宗の寺院「雲洞庵」としてお寺の再興に乗り出しました。本堂は1707年に建て替えられたものですが、1429年に憲実公が建てたものとほぼ変わらない姿で造られたと伝わっています。

ロケ地その1、赤門前

本堂と同じく室町時代に造られ、江戸時代に再建されたのが山門、通称「赤門」です。かつては皇室、大名などの身分の高い人の来訪時にしか使われなかった開かずの門だったそうですが、唯一の例外が年に1度行われる「大般若会」でした。これは600巻にも及ぶ「大般若経」を僧侶たちが転読(経典を読むこと。この場合は経典を広げたことで読んだと解釈して、一部を略して読むこと)する行事です。僧侶たちが経文が書かれた折り本をアコーディオンのようにバラバラと開いていく様子を、目にしたことのある方もいるのではないでしょうか。ちなみにこの所作によって起こる風に触れると、諸願成就のご利益があるのだとか!現在は毎年5月の第4日曜日に行われており、一般の方も見学が可能です。
雲洞庵では「峠」のクライマックスのひとつである「小千谷談判」のシーンの撮影が行われました。これは継之助が戦争を何としても避けたいという思いで、西軍の岩村精一郎と、小千谷市の慈眼寺で会談を行った歴史的一場面です。残念ながら交渉は決裂。諦めきれない継之助は夜になってもう一度岩村に会わせてほしいと寺を訪れ門前で頼み込みます。この場面を撮ったのが赤門前です。
雲洞庵の職員・長谷川達也さんによると撮影が行われたのは2019年10月。拝観が休みの日を利用したそうです。

雲洞庵の土踏んだか…とは?

赤門から本堂に至るまでの参道はとてもご利益の深いスポットなのです。「雲洞庵の土踏んだか」という言葉、聞いたことがある方もいるのでは?この「土」とは参道の石畳のことなのです。
「法華経の経文を1個の石に1字ずつ刻んだものを地中に埋めて、その上に石畳を敷いたと伝わっております」と長谷川さんは解説してくれました。
この下に経文が刻まれた石が埋められています。参拝者の中には「(石畳の)どこに文字が書いてあるんですか」と尋ねてくる人もいるのだとか。私もこの石畳の裏に文字が刻まれているのかと勘違いしていたのですが、実は参道の1メートルほど下の地中に石が埋まっているのだとか。
この土(石畳)を踏みしめてお参りすると「罪業消滅、万福多幸」のご利益にあずかると言われています。

小千谷談判の撮影はここ!

小千谷談判の撮影が行われたのは県の文化財に指定された本堂内にある「大方丈」です。開戦か否か。まさに今後の行方を決める重要な場面ということで、映画の中でも見せ場のひとつ。予告編で吉岡秀隆さん演じる岩村精一郎が無情にも「河井、帰って戦の用意をしろ!」と告げるシーンはここで撮影されました。
※大方丈の室内には入れません
ここはかつて上杉景勝直江兼続が、共に修業と勉学に励んだ場所と言われています。
それにちなんで、大河ドラマ「天地人」の原作が新聞に連載されていた時に挿絵を手掛けた、中村麻美さんによる幼き日の二人が学ぶ様子を描いた絵が飾られています。

参拝のあとは、ゆっくり寺内巡り

お寺に来たらご本尊にご挨拶を…と長谷川さんからご案内いただき、本堂のご本尊のところへ。ここには釈迦牟尼仏などが安置されています。作法は特にありませんとのこと。ロウソクに火を点して、お線香を上げて、静かに合掌しました。
お参りの後に、ご朱印をいただきました。
都合により書き置きでの対応になることもあるそうです。
本堂の左手奥に開山堂があります。開山堂とは文字通り、お寺を開いた(開山)方をお祀りするところです。ご縁のあった上杉憲実公、謙信公の位牌もありました。さらに江戸時代に再建したときに、当時、天領(幕府の直轄地)だったこともあって徳川家から支援があったため家康公の位牌もあります。この位牌、じつは長らく行方不明だったものが近年の修復工事時に床下から出てきたのだとか。「推察になりますが、戊辰戦争の時に西軍に見つかるとまずいということで隠してそのままになっていたのでは」とのことでした。
かつてここは全国から僧侶が集まり、厳しい修行が行われていました。この座禅堂は修行僧の学びの場でもあり、寝食の場でもあったそうです。現在は団体のみですが座禅体験を行うことができます。(令和3年6月現在、新型コロナウイルス感染症のためお休み中)
お堂の中には座禅体験者しか入ることができませんが、外には「雰囲気だけでも味わっていただこう」という趣向で、座禅が組めるように畳と座布団が置いてあります。
足は結跏趺坐(けっかふざ)という両足を組むスタイルになります。左右の足を反対の足の太ももに乗せるのですが、これが結構大変です。黒くて丸い座布団に浅く腰掛けると組みやすいですよとアドバイスをいただきました。手は法界定印(ほっかいじょういん)という左手を上にして両手の親指の先を付けるような形にします。なんちゃって体験でしたが、気分を味わうことができました。
座禅堂の隣には観音堂があります。安置されている千手千眼観世音は室町時代に上杉憲実公が奉納したと伝わっています。
さらにその奥には客殿があります。ここは参拝者がゆったりと休憩したりしているそうです。「最近は和室のない住宅も多く、畳を新鮮に感じてくつろぐ方もいらっしゃるようです」と、長谷川さん。
開け放たれた窓からは心地よい風が吹いてきて、畳に座って外を眺めているだけで心癒やされました。

お宝ずらりの宝物殿に妖怪の遺骨が!?

本堂右手には、長生きの水があります。かつて藤原先妣尼公が病の人を救ったと伝わる霊泉で、金城山より湧き水を引いてきたものでした。2004年の中越地震以降、残念ながら水質が変わってしまったそうです。現在は上水道ではありますが、水がこの寺の始まりという原点を忘れないためにも流し続けているそうです。
その奥には1982年に建立された宝物殿があります。
越後一と伝わる大涅槃図は圧巻のひとことです。
ほかに上杉景勝武田信玄の書状など大河ドラマ主役級クラスの歴史的人物の品がずらり。
さらにここには妖怪にまつわる品も展示されています。それが「火車落しの袈裟」「火車の頭蓋骨」です。火車とは墓場や葬儀から死体を奪うとされる妖怪で、その正体の多くが化け猫とされています。

火車がこの地の葬儀を襲ったと伝わるのは天正年間(1573〜92)の頃です。当時の住職は第十世・北高全祝(ほっこうぜんしゅく)禅師で、上杉謙信、武田信玄を仏門に帰依させた徳の高い僧侶でした。禅師がひるむことなく、鉄如意という棒で化け猫の頭を叩いたところ、血を吹き出して逃げていったのです。この時に返り血を浴びたのが「火車落しの袈裟」と伝わっています。なおその時の鉄如意は、長野県佐久市にある信玄の菩提寺・龍雲寺に秘蔵されているそうです。
その後、江戸時代に農作業をしていた地元の人が、地中から猫の骨のようなものを発見し「これはきっと昔から言い伝わるあの火車の頭蓋骨に違いない」と取っておいたと伝わっています。しかし、数年前に妖怪評論家として有名な荒俣宏さんが雲洞庵を訪れたときに「これは粘土で作られたものである可能性が高い」と指摘。どうやら土器の一部ではないかというのが、現在のところ有力な説になっているそうです。
見どころたっぷりですっかり堪能して帰路に着きました。
2019年には試験的に紅葉の時期にライトアップをして夜間拝観も行いました。令和3年は新型コロナウイルス感染症のため開催は見合わせますが、来年以降は実施を予定しているとのこと。その際には雲洞庵公式HPに情報を掲載するそうですので、ぜひチェックしてみてください。

雲洞庵

住所:新潟県南魚沼市雲洞660
TEL:025-782-0520
営業時間:午前9時から午後5時まで(12月から4月中旬は午前10時から午後3時30分)いずれも受付は閉門の30分前まで
休館日:水曜日(祝日・お盆・正月を除く)
拝観料:300円

雲洞庵

この記事を書いた人
和田明子

長岡市のリバティデザインスタジオで、夫とともにグラフィックデザインやコンテンツ制作を行う。アート、映画、文学、建築、カフェ巡り、旅行、可愛いものが大好き。ウェブマガジン「WebSkip(https://webskip.net/)」も細々と更新中

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