魚沼の戊辰戦争。1868年、会津藩士はどのように戦い、敗走したのか/魚沼市・南魚沼市・湯沢町


2022年05月29日 12571ビュー
司馬遼太郎の『峠』を初めて読んだのは学生の頃だったか、もはや記憶も曖昧ですが、令和の今、映画化されるとは。祝・『峠 最後のサムライ』6月17日(金)公開。もちろん私も映画館へ観に行きます!
浦佐・普光寺の境内での撮影ロケ風景。(c)2020『峠 最後のサムライ』製作委員会

長岡から近い魚沼。154年前、魚沼では。

私が住む南魚沼市、市役所庁舎のある六日町から長岡までは、直線距離で約50~60キロしかありません。昔は、近場の長岡藩の管轄地だと思っていました。(車も長岡ナンバーですし。)
でも実際は、幕末の頃、会津藩の預かり地でした。
 
1868年、今(2022年)から154年前、長岡藩は家老の河井継之助の指揮により壮絶な戦いを行いますが、わずか50~60キロの魚沼では、どのような様子だったのでしょう。

時系列でご案内。154年前の1月からスタート。

日にちについて触れておかなければならないのが、旧暦と新暦です。明治5年(1872年)、暦法の改正があり、それまで長い間、使われていた陰暦を廃止して、太陽暦が使われることとなり、これを新暦と呼びました。
注釈を都度つけると大変なので、とりあえず旧暦で(閏月が含まれます)、いきます。

慶應4年(1868年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。薩摩藩と長州藩が「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げ、「天皇(朝廷)の軍(官軍)」であると示して圧勝。

将軍・徳川慶喜は江戸へ逃げ帰り、薩長側は「討幕」のため、江戸に向かいながら兵力を増やし、4月11日には江戸城が無血開城されました。

それにより、抵抗する旧幕府側の藩との攻防がくり広げられますが、徳川の譜代大名である会津藩は、特に標的とされました。薩長は諸藩に「戦争か恭順か」と、迫りながら会津に向けて北上します。

2月1日、幕府は魚沼の出雲崎代官所の支配地を会津預り地とし、小出島の陣屋に、郡奉行として会津藩の町野源之助が着任しました。

閏4月9日、新政府軍の出方をうかがうために、町野が役人40人、郷兵・村兵300人を引き連れ、浅貝まで出陣して、様子を探りました。会津軍は、三国峠の陣地を固めるため、峠の三社権現から、三坂別当と般若塚まで陣地を作りました。要塞は、閏4月13日頃から三社権現に柵を設け、般若塚も含めて完成しました。

県境に最も近い浅貝村

上州(群馬県)に隣接したのが、湯沢の浅貝村。江戸時代まで浅貝宿があり、本陣・問屋は綿貫家が務めました。
現在、「ホテル本陣リゾート」となり、綿貫家によって経営されています。
現在の御阪三社神社。三国峠(1348メートル)の頂にあり、登山口からは1時間ほどで登れます。
現在の般若塚(群馬県利根郡みなかみ町)。
般若塚から永井宿(みなかみ町)へ向かう様子。街道の両脇は2メートルほどの高さがあり、街道を塞げば敵軍を食い止められそうな地形です。

閏4月24日の早朝、新政府軍(高崎藩など上州の諸藩)は三方向から会津軍の般若塚陣地を攻めました。霧深く雨が降っていたそうです。
前の写真より少し街道を進み、般若塚方面を振り返って撮影。この坂道を越えると、般若塚陣地があったわけです。新政府軍は、息せき切って、この坂道を上がったのでしょうか。
 
会津軍は町野の弟、久吉など3名の犠牲者を出し、敗退します。三坂別当を焼いて逃げ、峠を下りました。

浅貝宿、焼かれる

浅貝本陣の古写真。撮影年は不明。写真提供:湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

会津軍が浅貝宿へ着いたのが午前10時頃。追ってくる敵陣に利用されるのを防ぐため、会津軍は宿場に火を点けました。浅貝宿54戸は、本陣の蔵だけ残して全焼しました。村民は214人。
 

二居宿も焼かれる

二居宿の古写真。撮影年は不明。写真提供:湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

その1時間半ほど後、会津軍は二居宿に到着します。会津軍は、二居宿にも火を点けて、43戸全てを焼亡させました。残ったのは十二神社と教徳寺、土蔵の3つのみ。村民は198人。
高台にある十二神社。村民はここに逃げたと言われています。現在は二居神社と改称。昭和53年(1978年)に社殿を増改築。教徳寺は廃寺になり、いまあるのは跡地のみです。
二居本陣も全焼しました。現在の建物は、明治2年(1869年)に元通りの間取りで再建されたものです。

旧本陣・富沢家

住所:南魚沼郡湯沢町大字三国887
見学:外観のみ
交通アクセス:JR越後湯沢駅から車で約25分

会津軍は二居峠を通過し、三俣宿へ

二居宿から三俣宿までの間に、二居峠があります。別名「小豆峠(あずきとうげ)」と呼ばれています。この下に見える家に声をかけ、小豆を煮ておいてもらうと、下り切った頃にはちょうど煮終わっていたからだそうです。それくらい近いのですが、急な坂道です。
峠の頂付近から、二居宿を見下ろして、山と山の間に通るのは国道17号線です。国道の左側に清津川が流れ、その左側の位置に旧街道が通っていました。

会津軍は二居峠を上りつめてから下りた所の、中の峠にあった茶屋で留まり、二居峠で最後の一戦を企みます。
ところが三俣宿に援軍を要請するものの応えられず、会津軍は三俣宿まで後退します。その頃の時間は、5時に近かったといいます。

会津軍は、いよいよ三俣宿へ

三俣宿には本陣1軒と脇本陣3軒(池田家・越後屋・港屋)があり、問屋はこの4軒が輪番で勤め、「4軒(しけん)問屋」と呼ばれていました。現在、昔の建物として残っているのは、池田家のみです。

写真は、平成30年(2018年)に、建物が町に寄贈された池田家です。その年に行われたオープニングセレモニーの時に撮影。
池田家の内部、上段の間。高貴な人が宿泊する用に、一段高く上がった部屋となっています。

当時、三俣の村民は、浅貝と二居が焼かれたと知って恐れ、三日間も山奥に逃げ隠れたそうです。
旧脇本陣・池田家

旧脇本陣・池田家

住所:南魚沼郡湯沢町大字三俣780
見学料:大人300円、子ども150円
予約先:湯沢町教育委員会(平日のみ)
予約電話番号:025-784‐2211(要予約)
交通アクセス:JR湯沢駅から車で約15分

三俣宿も焼かれたかというと・・・

池田家が残っているということからも、もうお分かりかと思いますが、なぜか焼かれなかったのです。

焼かれなかった理由には諸説ありますが、有力な説は、新政府軍が北陸道経由で六日町へ向かっていると報せがあり、撤退を急がないと小出島まで逃げられなくなるので、急いで出発した、というものです。

でも、火を点けて逃げるなんて、浅貝と二居でやったように、そんなに時間がかかるわけではなく、すぐにできると思うんです。

これは私の推測ですが、浅貝と二居を焼き払ったときには、会津軍はまだ、体制を整え援軍を呼べば勝てる、と考えていたのでないかと思います。ところが、三俣で、これはちょっと厳しいぞ、と。諦めてしまったので、焼かなかったのでは……と思います。
 
または池田家に残っている言い伝え、という説もあります。
それは、三俣の本陣・関新左衛門が、脇本陣・池田家の池田七衛門と共に、二居方面に向かい道の真ん中で正座して、藩士に「焼き払いをやめてほしい」と陳情したというものです。その時ふたりは死を覚悟し、白装束をまとっていたそうです。
三俣宿を過ぎると、八木沢に口留番所がありました。写真は、現在の口留番所跡地付近。十二神社があります。
 
会津軍は当初、口留番所で陣地をとって戦おうとしたものの撤回し、湯沢宿で午後10時頃に夕食をとりました。その時の武士は111名。

湯沢を抜けた後の会津軍は、散り散りに小出島へ

会津軍は、関宿の手前、関村(現在の南魚沼市)を通り、魚野川の対岸を渡って坂戸から川船を使ったりして、小出島の陣屋まで、散り散りに退散しました。
 
町野の帰陣ルートは、坂戸山東方の通称「焼松越」→下原村(六日町)の西珠院で休息→二日町から乗船→小出島でした。

それから、小出島では

さて、翌日の25日、上州八藩の新政府軍が六日町に到着しましたが、翌26日には、そのまま帰還しました。
 
25日の午後3時頃、町野は陣屋に姿を見せ、「小出島での抗戦は難しい、小千谷へ下る」と意志を伝えたものの、一同は納得しませんでした。
 
その頃、新政府軍は浦佐に着陣。薩摩藩兵は普光寺に、長州奇兵隊は関新五郎宅に、長府報国隊は千手院に宿営しました。
 
26日は終日、雨が激しかったそうです。小出島を攻撃する新政府軍の兵力は約千人。
 
27日、夜来の雨が小降りとなり、午前2時頃から、新政府軍が進撃を始めました。
 激闘は午前7時頃から約2時間余。会津軍は兵力が僅少であった上、武器も旧式だったそうです。双方、雨あられの如く撃ちかける大砲鉄砲。兵火は小出島で4カ所、市中一円が戦場となりました。焼かれた人家は168軒におよびました。
現在、小出島陣屋の跡地。戊辰戦争懐旧碑があります。魚沼市指定文化財。
昭和36年(1961年)に建立、費用は小出島有志の拠金でまかなわれたそうです。
石碑の文字の解説について立札もありました。
小出島陣屋跡

小出島陣屋跡

住所:魚沼市諏訪町1丁目16
交通アクセス:JR小出駅から車で約5分

そして戦場には死者が・・・

負けて賊軍となった会津藩兵や、旧幕府軍の重傷者を公然と介抱する人は一人もなかったそうです。重傷者は捕らえられ、残らず殺されました。人数は分かりません。敗者は、その歴史も処分されてしまうからでしょうか。その亡骸は、火葬場の灰の中に捨てられたそうです。
 
町野はといえば、六十里越えで会津まで逃げてゆきます。(継之助は八十里越え)
 
一方、新政府軍の戦死者は薩長各6名で合計12人、負傷者は薩長と尾張藩の合計18人でした。
 

戦死者と負傷者は、浦佐の普光寺へ

こちらが現在の普光寺、山門。
毎年三月に毘沙門堂で行われる裸押し合い大祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の重要無形文化財に指定されています。
毘沙門堂。この中で信者が裸で押し合うんですねー。古式そのままの祭事なんだそうです。私は外から眺めるだけならお祭りを見たことがありますが、中へ入ってはありません。
大きな石仏の不動明王と、うがい鉢。

薩長戦死者の墓地へ

「浦佐戊辰薩長戦死の墓」と立て看板があります。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦死者が、ここに眠ります。薩長16名の墓は写真の左手奥。「はじめ普光寺に埋葬され、後小千谷の船岡山へ移された」と、『小出町史』に書いてあります。

戦死者の位牌がある「上段の間」

こちらが本堂の「上段の間」。廊下から座敷へ入り、奥へ進むと、戦死者の位牌があります。
十六名の戒名が刻まれています。位牌の前には、陣笠がふたつ。
位牌の左手には「挟箱」もありました。
「官軍」ですので、菊花紋があります。
別当 吉祥山 普光寺

別当 吉祥山 普光寺

住所:南魚沼市浦佐2495
拝観受付:午前9時30分~午後4時30分
拝観料(上記の三カ所):お問合せください(境内は自由に拝観できます)
電話:025‐777‐2001(要予約)
交通アクセス:JR浦佐駅より徒歩で約5分

私たちにとって、戊辰戦争とは・・・

雪も見たことないような南国の薩摩と長州から来た若者が、まさかこの雪国で、命果てようとは。出発のときには思いもよらず、本人はもちろん、郷里の家族も、さぞ無念でしたことでしょう。154年も昔のこととはいえ、戦争とはむごたらしいものです。
 
継之助も本来、戦争を望まなかったのではないかと思います。長岡も、そしてその周辺も、犠牲者をたくさん出しました。そして戦死者こそ出なかったものの、やれ兵糧を出せ、兵役に来いと犠牲を受けた村人たち。村をぜんぶ焼かれてしまった浅貝と二居。筆舌に絶する苦しさ、悲しさがあったのではないでしょうか。
 
継之助は、どうして戦わなければならなかったんでしょう。
それが、どのように映画で描かれているのか。公開が待ち遠しいです。

有料で、毘沙門堂の内陣・本堂の上段の間・宝物殿の拝観もできます。ぜひ訪れてみてください。

<参考文献>

『湯沢町誌』昭和53年発行、著者:湯沢町誌編集委員会
『湯沢町史 通史編 下巻』平成17年発行、編集:湯沢町史編さん室
『小出町史 下巻』平成10年発行、編集:小出町教育委員会
『戊辰戦争140年 戊辰小出島戦争記』平成20年発行、著者:小幡梅吉、訳者:磯部定治
『大和の風土記』昭和44年発行、編著者:穴沢吉太郎
『もっと知りたい三国街道みつまた』令和2年発行、著者:池田誠司

この記事を書いた人
シバゴー

南魚沼市在住。趣味は写真撮影と読書で、本で調べた所へ行って写真を撮ることをライフワークとしています。神社彫刻が好きで、幕末の彫刻家・石川雲蝶と小林源太郎、「雲蝶のストーカー」を公言する中島すい子さんのファン。地域の郷土史研究家・細矢菊治さんや、地元を撮影した写真家・中俣正義さん、高橋藤雄さんのファンでもあります。