魚沼の戊辰戦争。1868年、会津藩士はどのように戦い、敗走したのか/魚沼市・南魚沼市・湯沢町
長岡から近い魚沼。154年前、魚沼では。
でも実際は、幕末の頃、会津藩の預かり地でした。
1868年、今(2022年)から154年前、長岡藩は家老の河井継之助の指揮により壮絶な戦いを行いますが、わずか50~60キロの魚沼では、どのような様子だったのでしょう。
時系列でご案内。154年前の1月からスタート。
注釈を都度つけると大変なので、とりあえず旧暦で(閏月が含まれます)、いきます。
慶應4年(1868年)1月3日、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。薩摩藩と長州藩が「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げ、「天皇(朝廷)の軍(官軍)」であると示して圧勝。
将軍・徳川慶喜は江戸へ逃げ帰り、薩長側は「討幕」のため、江戸に向かいながら兵力を増やし、4月11日には江戸城が無血開城されました。
それにより、抵抗する旧幕府側の藩との攻防がくり広げられますが、徳川の譜代大名である会津藩は、特に標的とされました。薩長は諸藩に「戦争か恭順か」と、迫りながら会津に向けて北上します。
2月1日、幕府は魚沼の出雲崎代官所の支配地を会津預り地とし、小出島の陣屋に、郡奉行として会津藩の町野源之助が着任しました。
閏4月9日、新政府軍の出方をうかがうために、町野が役人40人、郷兵・村兵300人を引き連れ、浅貝まで出陣して、様子を探りました。会津軍は、三国峠の陣地を固めるため、峠の三社権現から、三坂別当と般若塚まで陣地を作りました。要塞は、閏4月13日頃から三社権現に柵を設け、般若塚も含めて完成しました。
県境に最も近い浅貝村
現在、「ホテル本陣リゾート」となり、綿貫家によって経営されています。
閏4月24日の早朝、新政府軍(高崎藩など上州の諸藩)は三方向から会津軍の般若塚陣地を攻めました。霧深く雨が降っていたそうです。
会津軍は町野の弟、久吉など3名の犠牲者を出し、敗退します。三坂別当を焼いて逃げ、峠を下りました。
浅貝宿、焼かれる
会津軍が浅貝宿へ着いたのが午前10時頃。追ってくる敵陣に利用されるのを防ぐため、会津軍は宿場に火を点けました。浅貝宿54戸は、本陣の蔵だけ残して全焼しました。村民は214人。
二居宿も焼かれる
その1時間半ほど後、会津軍は二居宿に到着します。会津軍は、二居宿にも火を点けて、43戸全てを焼亡させました。残ったのは十二神社と教徳寺、土蔵の3つのみ。村民は198人。
旧本陣・富沢家
住所:南魚沼郡湯沢町大字三国887
見学:外観のみ
交通アクセス:JR越後湯沢駅から車で約25分
会津軍は二居峠を通過し、三俣宿へ
会津軍は二居峠を上りつめてから下りた所の、中の峠にあった茶屋で留まり、二居峠で最後の一戦を企みます。
ところが三俣宿に援軍を要請するものの応えられず、会津軍は三俣宿まで後退します。その頃の時間は、5時に近かったといいます。
会津軍は、いよいよ三俣宿へ
写真は、平成30年(2018年)に、建物が町に寄贈された池田家です。その年に行われたオープニングセレモニーの時に撮影。
当時、三俣の村民は、浅貝と二居が焼かれたと知って恐れ、三日間も山奥に逃げ隠れたそうです。
旧脇本陣・池田家
住所:南魚沼郡湯沢町大字三俣780
見学料:大人300円、子ども150円
予約先:湯沢町教育委員会(平日のみ)
予約電話番号:025-784‐2211(要予約)
交通アクセス:JR湯沢駅から車で約15分
三俣宿も焼かれたかというと・・・
焼かれなかった理由には諸説ありますが、有力な説は、新政府軍が北陸道経由で六日町へ向かっていると報せがあり、撤退を急がないと小出島まで逃げられなくなるので、急いで出発した、というものです。
でも、火を点けて逃げるなんて、浅貝と二居でやったように、そんなに時間がかかるわけではなく、すぐにできると思うんです。
これは私の推測ですが、浅貝と二居を焼き払ったときには、会津軍はまだ、体制を整え援軍を呼べば勝てる、と考えていたのでないかと思います。ところが、三俣で、これはちょっと厳しいぞ、と。諦めてしまったので、焼かなかったのでは……と思います。
または池田家に残っている言い伝え、という説もあります。
それは、三俣の本陣・関新左衛門が、脇本陣・池田家の池田七衛門と共に、二居方面に向かい道の真ん中で正座して、藩士に「焼き払いをやめてほしい」と陳情したというものです。その時ふたりは死を覚悟し、白装束をまとっていたそうです。
会津軍は当初、口留番所で陣地をとって戦おうとしたものの撤回し、湯沢宿で午後10時頃に夕食をとりました。その時の武士は111名。
湯沢を抜けた後の会津軍は、散り散りに小出島へ
町野の帰陣ルートは、坂戸山東方の通称「焼松越」→下原村(六日町)の西珠院で休息→二日町から乗船→小出島でした。
それから、小出島では
25日の午後3時頃、町野は陣屋に姿を見せ、「小出島での抗戦は難しい、小千谷へ下る」と意志を伝えたものの、一同は納得しませんでした。
その頃、新政府軍は浦佐に着陣。薩摩藩兵は普光寺に、長州奇兵隊は関新五郎宅に、長府報国隊は千手院に宿営しました。
26日は終日、雨が激しかったそうです。小出島を攻撃する新政府軍の兵力は約千人。
27日、夜来の雨が小降りとなり、午前2時頃から、新政府軍が進撃を始めました。
激闘は午前7時頃から約2時間余。会津軍は兵力が僅少であった上、武器も旧式だったそうです。双方、雨あられの如く撃ちかける大砲鉄砲。兵火は小出島で4カ所、市中一円が戦場となりました。焼かれた人家は168軒におよびました。
小出島陣屋跡
住所:魚沼市諏訪町1丁目16
交通アクセス:JR小出駅から車で約5分
そして戦場には死者が・・・
町野はといえば、六十里越えで会津まで逃げてゆきます。(継之助は八十里越え)
一方、新政府軍の戦死者は薩長各6名で合計12人、負傷者は薩長と尾張藩の合計18人でした。
戦死者と負傷者は、浦佐の普光寺へ
毎年三月に毘沙門堂で行われる裸押し合い大祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の重要無形文化財に指定されています。
薩長戦死者の墓地へ
戦死者の位牌がある「上段の間」
別当 吉祥山 普光寺
住所:南魚沼市浦佐2495
拝観受付:午前9時30分~午後4時30分
拝観料(上記の三カ所):お問合せください(境内は自由に拝観できます)
電話:025‐777‐2001(要予約)
交通アクセス:JR浦佐駅より徒歩で約5分
私たちにとって、戊辰戦争とは・・・
継之助も本来、戦争を望まなかったのではないかと思います。長岡も、そしてその周辺も、犠牲者をたくさん出しました。そして戦死者こそ出なかったものの、やれ兵糧を出せ、兵役に来いと犠牲を受けた村人たち。村をぜんぶ焼かれてしまった浅貝と二居。筆舌に絶する苦しさ、悲しさがあったのではないでしょうか。
継之助は、どうして戦わなければならなかったんでしょう。
それが、どのように映画で描かれているのか。公開が待ち遠しいです。
有料で、毘沙門堂の内陣・本堂の上段の間・宝物殿の拝観もできます。ぜひ訪れてみてください。
<参考文献>
『湯沢町誌』昭和53年発行、著者:湯沢町誌編集委員会
『湯沢町史 通史編 下巻』平成17年発行、編集:湯沢町史編さん室
『小出町史 下巻』平成10年発行、編集:小出町教育委員会
『戊辰戦争140年 戊辰小出島戦争記』平成20年発行、著者:小幡梅吉、訳者:磯部定治
『大和の風土記』昭和44年発行、編著者:穴沢吉太郎
『もっと知りたい三国街道みつまた』令和2年発行、著者:池田誠司
南魚沼市在住。趣味は写真撮影と読書で、本で調べた所へ行って写真を撮ることをライフワークとしています。神社彫刻が好きで、幕末の彫刻家・石川雲蝶と小林源太郎、「雲蝶のストーカー」を公言する中島すい子さんのファン。地域の郷土史研究家・細矢菊治さんや、地元を撮影した写真家・中俣正義さん、高橋藤雄さんのファンでもあります。