いまこそ世界遺産「佐渡島の金山」を訪ねてみよう!前編「きらりうむ佐渡」「佐渡奉行所跡」/佐渡市


2024年12月23日 39ビュー
2024年7月、「佐渡島(さど)の金山」がついに世界文化遺産に登録されました。
今回は特別に佐渡市の世界遺産推進課の宇佐美さんにお話を聞きながら関連する3カ所を回りました。
 

旅のはじまりは「きらりうむ佐渡」

両津港から車で約50分、「きらりうむ佐渡」は相川にある佐渡金銀山の周辺を訪ねるためのガイダンス施設・情報発信拠点です。

「きらりうむ」は一般募集し選ばれた、金などの光をイメージする「きらり」とプラネタリウムなどの「リウム」を合わせた造語の愛称だそうです。再翻訳すると「キラキラスポット!」って感じですね。
※ 画像提供 佐渡市

館内では金銀生産の様子などをシアターやパネル展示で紹介しています。
シアターは若いイケメン奉行が佐渡の各地を訪問するウェルカムシアターの<奉行が見た「こがねの島」>ほか、砂金を採る「大流し」が分かる「西三川砂金山」について、金銀鉱石が小判になるまでが分かる「江戸時代の相川金銀山」について、機械化をした「近代鉱山の幕開け」についての4つがあります。
パネル展示では絵地図なども交えてより詳しく金銀山のなりたちや歴史について説明されています。
子どもも楽しめるように入り口にクイズの紙が置かれていたり、「のぞき穴」をのぞくと豆知識が得られたりします。
砂金山で働いていた人たちの草鞋を無償で新品と交換してくれた「おくにの茶屋」のおくにちゃんの目的とは?やさしいお茶屋の娘だと信じていたのに!その答えはのぞき穴を見て!
内容を個人的にざっくりまとめるとまず西三川などの「砂金」と、相川などの「金銀鉱石」で金の採り方は違っているそうです。

砂金については堤にためた大量の水で土砂を流し残った砂金を採る「大流し」が特徴的な方法です。
金銀鉱石については「鉛」と一緒に熔かして、さらに加熱することで金銀と不純物の入った灰に分別する「灰吹法(はいふきほう)」と、金銀の合金と「塩」を一緒に焼くことで塩化銀と金に分離させる「焼金法(やききんほう)」の2つが特徴的です。

これらを覚えておくと佐渡奉行所跡や史跡 佐渡金山で「これ、きらりうむで学んだやつだ!」と理解が深まります。
機械や化学薬品を使わずに高純度の金を精錬した当時の佐渡の技術力は世界一ィ!
あと金銀鉱石の掘り方は時代によって地表に露出した鉱脈を掘る「露頭(ろとう)掘り」、鉱脈を追いかけて掘る「ひ追い掘り」、水平方向に坑道を掘り、多数の並行鉱脈を同時に掘る「横相(よこあい)」(坑道掘り)と発展していきました。この3つを押さえておけばいいでしょう。

ちなみに相川金銀山にある有名な「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」は開発初期に山の頂上から掘っていった露頭掘りの採掘地だそうです。
下から掘っていたら穴が大きくなって天井が崩れた山だと勝手に勘違いしていました!いろいろな発見がありますね。
相川金銀山は鶴子銀山の山師によって発見され1601年から本格的に開発されはじめたそうです。当時わずかな民家があるだけの寒村だった相川は、そこから最盛期には約5万人もの人が集まる町になったとされています。
今の佐渡全体の人口が5万人かそれ以下(統計によって異なる)らしいので、今の全島規模の人々が狭い地域に密集していたことになります。

・日本各地から鉱山関係のほか商工業、農林水産業などの様々な人が移住してきていたこと
・山師(鉱山経営者)の名前の付いた町名や、「材木町」「米屋町」など職業ごとに分けた町名で町割りがされたこと
・各自の宗派もバラバラなのでたくさんのお寺が建っていたこと
・人が増え金山の坑内から採れる赤土を使った「無名異焼」のほか「能」「鬼太鼓」など文化も発展していったこと

などが展示から読み取れます。まさに「佐渡へ佐渡へと草木もなびく」ゴールドラッシュですね!馴染みの女がいる繁華街もあったみたいですよ。

鎖国をしていて手工業だったのに世界トップクラスの産出量とすごい技術があったこと、それを裏付ける絵巻物などの資料がたくさん残っていることなどが世界遺産の根拠になったみたいです。
すごい技術!すごい町づくり!すごい文化!のガイダンスをここで済ませてから旅に出たならば楽しさはマシマシですね。
また、きらりうむは相川を拠点とした観光案内所にもなる「総合インフォメーション」もあるので観光プランをここで相談するのもいいかもしれません。
ミニチュアを自分で回せる「水上輪体験」、新潟県小千谷市から送られたゴールドな「錦鯉」展示、散策に便利な「レンタサイクル」などもあります!
佐渡金銀山ガイダンス施設 きらりうむ佐渡

佐渡金銀山ガイダンス施設 きらりうむ佐渡

住所:新潟県佐渡市相川三町目浜町18番地1
電話:0259-74-2215
開館時間:8:30~17:00(展示室最終受付16:30)
休館日:12/29~1/3
駐車場:乗用車157台 大型バス3台
入館料:大人300円 小中学生150円

世にもまれなる直営の選鉱場つき奉行所

きらりうむ佐渡から車で約5分、2000年に復元された「史跡 佐渡奉行所跡」は江戸時代に金銀山を管理するための奉行所があった高台に建っています。
かつては「御役所」(行政部分)と「寄勝場(よせせりば)」(直営工場)、「御陣屋」(奉行の住居)の3つの部分があったのですが、今は御役所と寄勝場部分の2つが復元されています。
1603年に徳川家康により佐渡代官に任命された「大久保長安(ながやす)」によって建てられた陣屋が佐渡奉行所のはじまりです。
この長安さんがとても有能な人だったみたいで山梨の黒川金山の経営に関わり、石見銀山の奉行になった後に佐渡代官も兼任することになります。石見銀山などの技術を佐渡に取り入れ、職業ごとの町割りをして、島内に能を広めることまでしているんですね。

能を広めたのが佐渡流罪になった世阿弥じゃなかったことにまずビックリです!そしてきらりうむで学んだすごい技術!すごい町づくり!すごい文化!の基礎にみんな長安さんが関わっていることになりますよね。時代のキーパーソンとなる人に注目するのもまた面白いです。
御役所はとても広くなっていますが、例えば「大広間」と「上之間」は身分の高い人が座る場所で「漆塗りの柱」になっていて、隣の部屋は身分の低い人向けで「白木の柱」になっています。復元された奉行所ですがこうしたぱっと見ると気付かない構造も再現されています。
雪の日でも使える全天候型の「御白州」の奥に展示されているのが「埋鉛」の鉛板です。
この鉛板はきらりうむでも学んだ「灰吹法」で使うものだったそうで、奉行所の跡地を発掘調査したら重さ約41キロあるこの鉛板が172枚も見つかったそうです。
鉛は融点が低く火事があればすぐに溶けるために、当時は地中に保管していたそうです。
とても面白いのが1718年に「掘ったけど1876貫の埋鉛が見つからなかった」という記録があり、平成に入って発掘された鉛板の重さが約1874貫でほとんど同じだということです。
資料が豊富に残っているという世界遺産の推薦理由がここでも実感できますね。
実はこの場所、発掘調査前には老人ホームを建てる予定もあったそうで、もし発掘が行われなければ鉛板はもう何百年か地面の中に眠っていたかもしれないと思うと、歴史の妙味を感じます。

ちなみに鉛の産地の新潟県村上市のほうにも記録が残っており「佐渡奉行所から買い付けに来たらできるだけ高く売るように」といったことが書かれていたらしいのです。
その気持ちわかります!佐渡金山は儲けていそうですもんね!一枚の板から当時の歴史や人の心理が垣間見えます。
御役所の一段下にあるのが「寄勝場(よせせりば)」です。当初は複数あった民間の「勝場」を1759年に官営にして、一か所に寄せたため寄勝場と呼ばれるそうです。

ここは金山で採掘された鉱石から金や銀を選鉱する工場で、きらりうむでシアターを見た後来ると「これ知ってるやつ!」と理解が深まります。
個人的にまとめるとハンマーで砕いて、石臼ですりつぶして、水の中に入れてジャブジャブしてすくって、木綿の布を敷いたすべり台に水で流してくっ付け、残りかすをもう一回再処理してと、これでもかと執拗に金銀を取り出し次の製錬所へ送り出す場所です。
400年近くの試行錯誤でガラパゴス的進化を遂げた手工業の様子が見て取れます。

明治までの佐渡奉行所の歴代の奉行(当初は代官)は102名を数えるそうです。
新任奉行たちに複雑な工程その他を説明するため残された引継ぎ資料(佐渡金銀山絵巻)が、後に世界遺産登録にも役立つことになることを考えると、ここは歴史と金銀生産の大事な中継点だったのですね!
史跡 佐渡奉行所跡

史跡 佐渡奉行所跡

住所:新潟県佐渡市相川広間町1番地1
電話:0259-74-2201
開館時間:8:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日:12/29~1/3
駐車場:10台
入館料::大人500円 小中学生200円

ちなみに奉行所跡の徒歩圏内に古い町並みを残す「京町通り」やラピュタの世界のようだと言われる「北沢浮遊選鉱場跡」がありますが、勝場で行われた選鉱作業を近代化した施設が北沢浮遊選鉱場だそうです。少し足を延ばせば江戸から近代へ時間移動できてしまいます。
この記事を書いた人
まきたろう

若い頃は自転車日本縦断や四国八十八ヶ所の歩き遍路など旅を住み家とし、新潟に戻っても漂泊の思いやまず仕事の傍ら県内外をさ迷っている人生まだまだ旅の途中の人。 昭和とか縄文とか古いものが好き♪五泉市在住。